2013/06/18

歴史のお話その140:漢⑥

<前漢その②>

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◎武帝の時代

 劉邦の死後は、后の呂后が政府の実権を握る時期が在りますが、彼女の死後は又、劉邦の子孫達が皇帝として政権を担当していきました。

 六代目景帝の時、呉楚七国の乱(紀元前141年)が発生します。
漢の中央集権化政策に国を没収されるんではないかと恐れた呉、楚等の七つの国がおこした反乱でした。
数ヶ月でこの反乱は鎮圧され、この結果漢の領内に大きな国は消滅し実質上、郡県制に移行したのです。

 第七代目が武帝(紀元前141年~紀元前87年)、16歳で即位し50年以上の長期に渡って在位した、中国史上、名君の一人です。

 漢の建国から約60年を経て、大きな戦乱も無く、国庫は豊かになり、中央集権化も完成し、彼の時代が前漢の最盛期に成ります。

 漢は劉邦以来、匈奴に対して和親策をとっているのですが、匈奴はしばしば長城を越えて中国内地に侵入して、略奪を働いていました。
その様な背景の中、武帝は対匈奴討伐を積極的に行ったのですが、匈奴は遊牧民族なので、漢の軍隊が彼等の勢力範囲に出陣しても捕獲する事が出来ず、また、戦闘に持ち込んでも決定的な打撃を与える事が出来ません。
漢の軍隊は基本的に歩兵ですから、馬族の機動力に翻弄されました。

 やがて匈奴の捕虜から大月氏国の情報を得る事が出来ました。
中国の王朝では、自己の領土よりも西の地方を漠然と「西域」と呼びます。
その「西域」に月氏国が在るのですが、この国が匈奴の度重なる攻撃に晒され、更に西へ移動し、移動後を大月氏国と称し、匈奴に対して強い恨みを持っているとの事でした。

 その話を聞いて、武帝は大月氏国と同盟を結び、東西から匈奴を挟み撃ちする事を考えたのです。
同盟を結ぶ為には使者を「西域」へ派遣しなければならないのですが、「西域」は当に辺境の地、地の果てですから、宮廷の誰も使者に成りたがりません。
当時のそして、時代を過ぎても中国人にとっては、西域は魑魅魍魎の跋扈する恐ろしい世界と信じられていました。
当然ながら、その様な場所へ行く事自体、生きて帰れるとは誰も思っていません。

 その、危険極まりない「西域」への特使に志願した男が居ました。
その人物が張騫(ちょうけん)で、武帝は張騫が意思強固な人物と見込んで、彼に百人以上の警護部隊を同行させ、紀元前139年「西域」の果て大月氏国に派遣したのです。

 張騫は漢の領土から「西域」に踏み出した直後、匈奴側の守備隊に発見されてしまいます。
運良く殺される事は無いのですがが、そのまま捕虜になり匈奴人と共に生活する事に成ったうえ、匈奴人のお嫁さんをもらい子供も授かりました。
匈奴側から見れば、張騫は漢の情報源として貴重な存在なので、脱走防止の為、監視も相当厳重を極めたそうです。
10年間匈奴の中で暮らした為、殆ど匈奴人に成っていると思われたのですが、隙を見て妻子と従者を連れて脱走を実行しました。
この逃避行で関心する事が、漢に戻らず大月氏国へ向かった事で、張騫はあくまでも武帝の使命を果たそうとしたのです。

漢:続く・・・

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