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2013/06/19

歴史のお話その141:漢⑦

<前漢その③>

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◎武帝の時代②

 大月氏へ到達した張騫は、漢との同盟を申し入れますが、大月氏の王の立場では、張騫の申し出は危険でした。
特に張騫が漢の武帝から派遣されて、既に10年以上経過しており、武帝が現時点で生きているかどうかも判らず、存命で在っても今も匈奴討伐を考えているか否か、一切の確証も在りません。
使者ひとりが漢から大月氏に来る迄に10年の歳月が横たわっている事は、常識的に考えて同盟を結んでも共同作戦等行える筈は無いと考えたのです。

 そして、なによりもこの時の大月氏国は、豊かな国土を維持し、今さら匈奴と戦いを交え、以前の領土を取り戻す気持ちは、既に存在しませんでした。

 張騫は大月氏国に一年程滞在しましたが、結局同盟は無理と悟り帰国の旅に出ます。
この帰国の途中再度、匈奴の捕虜になるのですが、この時は幸運にも匈奴内部に混乱が生じ、その隙をついてまた脱走しました。

 紀元前126年、漢の都を出発から13年後、張騫はようやく長安に帰り着いたのです。
百人以上の従者は僅か一人に成り、加えて匈奴人の妻子を連れての帰国でした。
死んだと思われていた張騫の帰還に、武帝は感激し張騫は英雄と成りました。
大月氏との同盟は果たせませんでしたが、張騫は10年以上も「西域」で生活し匈奴や西域諸国の情報に極めて詳しく成っていたのです。
武帝はその情報をもとに匈奴に対して攻撃を企てたのです。

 対匈奴作戦で大活躍した将軍が、衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)です。
叔父さんと甥の関係で、衛青は姉が武帝の寵愛を受け、その関連で出世の糸口を掴みましたが、将軍としての才能が在り、若い時から大活躍して出世して行きました。

 この二人の活躍で匈奴の勢力は、次第に衰えていきました。
匈奴は非常に広い地域を勢力下に置いており、その支配下には様々な遊牧部族やオアシス都市国家が点在しています。
領土に住んでいる人々の総てが匈奴人では在りません。

 従って、漢の積極的な軍事行動で、匈奴から漢に帰順する部族や都市国家も増加し、やがては匈奴の内部でも内部闘争は生じ、漢に服属する一隊も生まれてきました。
 
 張騫も再び「西域」に向かい、東西交易路上のオアシス諸都市を漢の支配下に置きました。
武帝の時代に漢の領域は西に張り出し、西域方面に敦煌(とんこう)郡等四郡を設けています。

 武帝の軍事行動で有名なのは汗血馬です。
張騫の情報に中央アジアの大宛(だいえん)国の話が在り、この国は汗血馬という名馬の産地と聞かされました。
遊牧民の匈奴と戦うにはその様な名馬を手に入れたいのですが、外交交渉は失敗、大宛に断られてしまいましたから、軍事力の動員です。

 李広利将軍が大宛遠征に派遣され、6万の軍を率いて出陣しますが、苦戦の連続で数年かかって帰国、しかも兵士は1万に減っていたと云いますから、どれ程は激しい戦いだったか想像できます。
しかしながら、彼等は3000頭の汗血馬を連れ帰る事に成功しました。
この馬を繁殖させて、匈奴との戦いに利用したのです。

 汗血馬とは如何なる馬なのでしょう。
この汗血馬が後に西アジアに伝わり、アラブ馬と成り、更にアラブ馬が、ヨーロッパに運ばれてイギリスで在来種と交配されてサラブレッドが誕生したのですから、速い馬だったのです。

漢:続く・・・


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