2013/06/22

歴史のお話その144:漢番外②

<前漢番外その②>

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◎匈奴とフン族

 紀元前3世紀末、中国北東部、現在のモンゴル高原には、強大な遊牧民の国家が、出現しました。
この国家を建設した民族を漢民族は、「匈奴」呼び、秦の始皇帝が、“万里の長城”を構築したのも、この匈奴に対抗する為であり、漢の高祖(劉邦)に至っては、匈奴討伐が失敗した上、自分自身の身も危険に曝す結果となりました。

 紀元前2世紀には、匈奴の版図は更に拡大の一途をたどり、東は熱河、西は中央アジア、北はバイカル湖南部、南は長城に接する迄に及んだのでした。
しかし、匈奴が如何なる人種、如何なる民族に属するのか、現在でも確立されておらず、学会においても、古くからトルコ系とする説とモンゴル系とする説が対峙しています。
更に匈奴の支配階級が、アーリア系の白色人種であったとする説も後年、発表されました。

 匈奴には、文字が存在しない為、その言語体系を考察する手段が無く、漢民族の記録を頼りに研究が進められた結果、上述の様な見解が現れているのです。
しかも匈奴は、漢の勢力が強大となるに従い、次第に中国内部、中央アジア方面に圧迫され、更に追い討ちを掛けたのが、紀元前2世紀末から武帝による、数度に及ぶ討伐遠征であり、さしもの匈奴もこれを境に、衰退の道を歩む結果と成りました。

 紀元後1世紀の半ば、匈奴は南北に分裂し、南匈奴は漢に内属し中国北辺に移住し、やがて漢民族に同化され、北匈奴は、モンゴル高原にその勢力を保ったものの、1世紀末に行われた漢の討伐により、終に瓦解してしまいます。

 匈奴の国家は、此処に滅亡し、北匈奴の主力はシベリア南部を西へと敗走し、漢民族の世界から消えて行き、匈奴に関する記録も殆んど現れなくなります。
しかしながら、一時は、巨大な国家を建設した民族が、一朝にして滅び去る事は考えられず、事実、時代を下がる300年程後、モンゴル高原北部で、匈奴の子孫が発見された記録が存在する事からも一部の人々は、故地に残り、遊牧の生活を続けていたのでした。

 ちょうどその頃、ヨーロッパに未曾有の天変地異が発生していました。
ゲルマン民族の大移動であり、その誘因となったのは、「フン族」のヨーロッパ侵入でした。
4世紀後半から約200年間、ゲルマン諸民族は、次々に移動を重ね、その騒乱の中で西ローマ帝国は、476年に滅亡し、アッチラ王に率いられたフン族は、ヨーロッパを蹂躙したのです。

 フン族が、匈奴の後身ではないかとは、古くから学会において、提唱されて来た説であり、「匈奴」という文字の発音は、“フンヌ”若しくは“フンナ”であると推定され、漢帝国に圧迫された匈奴は、西への移動を重ねて、4世紀には、「フン族」として、終にヨーロッパに達したと思われます。
その移動した所々には、かつて匈奴が用いた物と同様の器物が発見され、かくして、「匈奴」と「フン族」は同一の民族で有ったとする説が、同族論の趣旨なのです。

では、匈奴=フン族は、200年以上の間に、ユーラシア大陸を横断する大移動を行ったのでしょうか?
又、匈奴は、トルコ系若しくは、モンゴル系の民族(アルタイ系)と推察されていますが、ならばフン族もアルタイ系の民族で在ったという事になります。
しかし、フン族をウラル系と主張する学者も居り、現在のフィン人(フィンランド)やマジャール人(ハンガリー)と同系の民族であるとする説で、更には、スラブ系とする説も存在しています。
匈奴、フン族は供にその民族系統もさるものながら、名称についても定説は存在せず、この二つの民族が同族である事を証明する事も容易な事では無いのです。
多分、200年を超える移動の間に、その移動地域の民族と交わり、匈奴本来の人種は、トルコ系民族に埋没してしまい、ヨーロッパに侵入したフン族は、全く別の人種だったのではないでしょうか?

漢:続く・・・

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コメント

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こんばんは

匈奴とフン族、いずれの謎が多い民族として学びましたね。
文和kの交流などに大きな役割を果たしましたが、その民族自身は謎のままなのですね。