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2013/06/25

歴史のお話その146:漢から新へ

<新と王莽>

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◎新

 武帝の死後、地方での豪族の成長がめだってきます。
奴隷や小作農を使用して大農場経営を行なってきた実力者です。
漢では郷挙里選という官吏登用制度が行われていましたから、豪族の子弟は、この制度によって官僚として中央政界に進出して行きました。

 武帝死後の漢の宮廷では権力闘争が活発と成り、その権力闘争の主役は宦官と外戚でした。
宦官の身分は低く、奴隷に近い身分ですが、彼等は皇帝の身近に仕えて身辺の世話を行う立場なので、自然と政治的な機密に触れるように成ります。
皇帝の立場から考えれば、彼等は皇帝が幼い時から一緒に過ごした近しい存在の為、武帝の様な公私を判断できる皇帝でなければ、彼等に政治的なことを任せてしまいます。
宦官は本来政治に関わるべきでは無い人物なので、官僚からすれば腹立たしい存在ですが、皇帝の信頼を得ている宦官に逆らえず、この様な雰囲気では、正常な政治は行われ難くなります。

 外戚は皇帝の母方の親戚のことで、年少の皇帝が即位すると政治的なことは母親やお祖母さんが行うのですが、そうなるとその親族が高い位を独占していくのは当然の成り行きで、この外戚も皇帝の親族という特権をふりかざして政治にかかわってきます。

 別々の背景から権力を持つ宦官と外戚は当然仲が悪く、宮廷で両勢力の権力闘争を繰り返している間に地方では豪族勢力が着々と勢力を蓄えていく姿が、前漢後半からの中国史の大きな流れです。

 王莽(おうもう)は前漢第十代皇帝元帝の皇后の甥にあたります。
上記の外戚で、種々の繋がりを利用して高い地位に就くわけですが、この人は儒学の学者として行いが立派なので評判が良い人物でした。

 王莽は終に自ら帝位に即位し、この時王莽は前漢最後の皇帝から位を譲ってもらう形を取ります。この形式を禅譲(ぜんじょう)と呼び、平和的に帝位が移動したわけです。
前漢の皇帝家は劉家で、王莽はその親戚なので王家出身です。
皇帝の家が変わる為国号も変え、王莽の王朝を新(しん)(紀元8年~23年)と称します。

 王莽は学者としては評判が良かったのですが、皇帝になると政治は一気に混乱しました。
王莽は儒学の権化(ごんげ)の様な人物で儒学の理想を強引に現実社会にあてはめようとしたからです。
理念を押しつけるだけの政治で世の中が動くわけが在りません。

 地方で豪族や農民の反乱がおこり、豪族反乱が緑林の乱、農民反乱は赤眉の乱と云います。
これは反乱農民達が自分達の目印として眉毛を赤く染めていた為、付けられた名前です。
この様な反乱の中で王莽の政府は崩壊しました。

漢:続く・・・

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