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2013/06/26

歴史のお話その147:漢の復興①

<漢の復興>

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◎後漢

 新滅亡後の混乱を収拾して新しい王朝を建国した人物が劉秀、皇帝としての称号は光武帝、国号は漢、都は洛陽、一般には後漢と呼びます。
劉秀は前漢皇帝家である劉氏の血筋を引いており、漢を復興した人物です。
彼自身は当時、地方の豪族で、豪族反乱軍の指導者から皇帝に迄昇りましたが、豪族勢力の協力や支持がなければ後漢は建国出来ませんでしたから、後漢は豪族の連合政権でも在ります。

 後漢の政治は前漢と同様ですが、対外政策、西域政策に関しては注目すべきものが在ります。
後漢初期には、班超がシルクロード沿いのオアシス諸都市国家を後漢に服属させて、西域都護として活躍しました。

 班超の部下となる甘英(かんえい)は班超の命を受け、西の方向に使者として派遣されました。
「西に向かって進めるだけ進め」、が班超の命令で、甘英は西に向かって旅を続け、最後に海に到達し、これ以上西に進めないと判断して都に引き返したのです。
甘英がどこまで旅をしたのか、興味深く、甘英によると海があった国は大秦国(だいしんこく)ですが、この国がどの国を指すのでしょうか?

 甘英が辿りついた海は何処でしょう?
これには二説あって、一つはカスピ海説。
湖ですが、初めて湖岸に立てば海と思う位広い湖で、もう一つが地中海説。
シリアの海岸迄辿りついて、引き返したとのしょうか?
現在では地中海説が有力のようです。

 では大秦国は何かというと、ローマ帝国を意味する事に成ります。
後漢の軍人がローマ帝国迄辿りついたと仮定しても、実に遠大な旅を行ったものです。

 このローマ帝国説を補強する記録が存在し、班超、甘英の時代から少し後の166年、中国南部の日南郡に一隻の船が着きました。
この船の乗員は大秦国王安敦(あんとん)の使者と名のっているのです。
大秦国がローマ帝国と仮定すれば、安敦とは誰でしょう。
当時のローマ皇帝はマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝で、五賢帝の最期の皇帝です。
アントニヌスを音写して安敦にほぼ間違いないと思われます。

 但し、ローマ側の記録にはマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が中国方面に使者を派遣した記録は存在せず、当時の漢に到着した人物達が、本当にローマ帝国の使節なのか、ローマ皇帝の名を騙った西方の商人ではないかとか云われていますが、この時期に東西の二大帝国が少しだけ接触していたことには変わりが在りません。

漢:続く・・・


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