歴史のお話その148:漢の復興②
<漢の文化その①>

司馬遷(紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)
◎漢の文化
前漢では司馬遷(しばせん)(紀元前145年?~紀元前86年?)。
代表的歴史家でその名著が「史記」、神話、伝説の時代から彼が生きていた前漢武帝の時代迄の歴史が書かれています。
この歴史書の書き方も重要で、紀伝体(きでんたい)形式で書いていますが、司馬遷が紀伝体という書き方を考案し、この書き方が以後中国では歴史書の書き方の模範になりました。
本紀(ほんぎ)と列伝(れつでん)の二つの部分から構成されている為で紀伝体と云います。
本紀は年表形式で、何年何月に起こった出来事を宮廷中心に羅列されています。
列伝はそれぞれの時代に生きた個性的な人物の伝記を集めたものです。
歴史の中で翻弄される人間達の運命を物語的に書かれており、この列伝が興味深い読み物です。
司馬遷は前漢武帝に仕えた人です。
史官の役職で、宮廷の出来事を記録する事が彼の家系の仕事でした。
司馬遷の父親も史官として漢の宮廷に仕えていたのですが、父親は史官としての仕事以外に自分の個人的な仕事として、歴史書を書こうとしていました。
それが「史記」なのです。
ところが「史記」を完成させる前に父親が亡くなり、息子司馬遷がその仕事も引き継いだのですから、司馬遷は宮廷勤めのかたわら、情熱を傾けて「史記」を書いていました。
武帝は積極的に西域経営を行い、匈奴征伐を繰り返していましたが、その遠征軍に李陵(りりょう)と云う将軍がいました。
この将軍も五千の兵を率いて匈奴征伐に出陣するのですが、逆に匈奴に包囲されて降伏します。
この知らせが長安の宮廷に届くと武帝は烈火の如く怒り、李陵将軍の一族は都に住んでいるのですが、武帝はその家族を総て処刑せよ、と命じます。
その時、史官司馬遷はその場に居合わせ、彼は李陵将軍の人徳を知っており、彼を弁護したのです。
「李陵将軍は立派な人物です。降伏したのには余程の訳があったに違いありません、事情が分かるまで、家族を処刑するのはお待ちください」、と。
武帝はこれを聞いて更に怒り増長させます。
「お前は史官の分際で皇帝の判断に口出しするか!」。
結果的に、司馬遷も死刑になる事に成ったのですが、彼には父親から引き継いだ「史記」を書き上げるという重要な仕事が在るのです。
当時死刑と同等に重い刑で宮刑(きゅうけい)が在り、これは性器を切り取られる刑で、宦官にされてしまうのですが、司馬遷はどちらかを選択することができました。
宮刑が死刑と同じ位、重いのでしょう?
男性性器を切り取られると事は男でも女でも無くなり、人間では無くなった、人間界に別れを告げる事を意味したからです。
当時の感覚では人間以下のものになってまで生き続ける事は、死ぬよりも辛い事ですが、司馬遷は「史記」を完成させるために宮刑を選びました。
宮刑を選んでも実際、生死の確立は死の方が遥かに高く、当時は医学も進歩していませんから、止血、消毒、皮膚の蘇生等は、受刑者の再生能力にかかっていたのです。
手術後の細菌感染が阻止出来ず、生存率はかなり低く、手術後は室温を高くしたサウナ室のような部屋に一週間閉じこめられ、一週間後生きながらえてこの部屋から出て来られたら、宮刑は成功との判断を下されます。
多くは、合併症で死に至る事が、殆どでした。
漢:続く・・・

司馬遷(紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)
◎漢の文化
前漢では司馬遷(しばせん)(紀元前145年?~紀元前86年?)。
代表的歴史家でその名著が「史記」、神話、伝説の時代から彼が生きていた前漢武帝の時代迄の歴史が書かれています。
この歴史書の書き方も重要で、紀伝体(きでんたい)形式で書いていますが、司馬遷が紀伝体という書き方を考案し、この書き方が以後中国では歴史書の書き方の模範になりました。
本紀(ほんぎ)と列伝(れつでん)の二つの部分から構成されている為で紀伝体と云います。
本紀は年表形式で、何年何月に起こった出来事を宮廷中心に羅列されています。
列伝はそれぞれの時代に生きた個性的な人物の伝記を集めたものです。
歴史の中で翻弄される人間達の運命を物語的に書かれており、この列伝が興味深い読み物です。
司馬遷は前漢武帝に仕えた人です。
史官の役職で、宮廷の出来事を記録する事が彼の家系の仕事でした。
司馬遷の父親も史官として漢の宮廷に仕えていたのですが、父親は史官としての仕事以外に自分の個人的な仕事として、歴史書を書こうとしていました。
それが「史記」なのです。
ところが「史記」を完成させる前に父親が亡くなり、息子司馬遷がその仕事も引き継いだのですから、司馬遷は宮廷勤めのかたわら、情熱を傾けて「史記」を書いていました。
武帝は積極的に西域経営を行い、匈奴征伐を繰り返していましたが、その遠征軍に李陵(りりょう)と云う将軍がいました。
この将軍も五千の兵を率いて匈奴征伐に出陣するのですが、逆に匈奴に包囲されて降伏します。
この知らせが長安の宮廷に届くと武帝は烈火の如く怒り、李陵将軍の一族は都に住んでいるのですが、武帝はその家族を総て処刑せよ、と命じます。
その時、史官司馬遷はその場に居合わせ、彼は李陵将軍の人徳を知っており、彼を弁護したのです。
「李陵将軍は立派な人物です。降伏したのには余程の訳があったに違いありません、事情が分かるまで、家族を処刑するのはお待ちください」、と。
武帝はこれを聞いて更に怒り増長させます。
「お前は史官の分際で皇帝の判断に口出しするか!」。
結果的に、司馬遷も死刑になる事に成ったのですが、彼には父親から引き継いだ「史記」を書き上げるという重要な仕事が在るのです。
当時死刑と同等に重い刑で宮刑(きゅうけい)が在り、これは性器を切り取られる刑で、宦官にされてしまうのですが、司馬遷はどちらかを選択することができました。
宮刑が死刑と同じ位、重いのでしょう?
男性性器を切り取られると事は男でも女でも無くなり、人間では無くなった、人間界に別れを告げる事を意味したからです。
当時の感覚では人間以下のものになってまで生き続ける事は、死ぬよりも辛い事ですが、司馬遷は「史記」を完成させるために宮刑を選びました。
宮刑を選んでも実際、生死の確立は死の方が遥かに高く、当時は医学も進歩していませんから、止血、消毒、皮膚の蘇生等は、受刑者の再生能力にかかっていたのです。
手術後の細菌感染が阻止出来ず、生存率はかなり低く、手術後は室温を高くしたサウナ室のような部屋に一週間閉じこめられ、一週間後生きながらえてこの部屋から出て来られたら、宮刑は成功との判断を下されます。
多くは、合併症で死に至る事が、殆どでした。
漢:続く・・・
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