歴史のお話その149:漢の復興③
<漢の文化その②>

◎漢の文化その②
自分がこの様な処遇を受ける事を考えると、司馬遷は人間の生き方というものを考えざるを得なくなります。
李陵将軍を弁護した事は正しいと司馬遷は考えましたが、武帝から屈辱的な刑を受けてしまいます。人間の運命とは何なのでしょう。
上記を踏まえながら、司馬遷は歴史上の人物について伝記を執筆します。
自分の主義に忠実な為に死に追いやられた者、悪事の限りを尽くして天寿を全うした盗賊等が列伝に登場します。
武帝に刑を受けながらもその臣下として生きている司馬遷、その彼が書く漢の歴史、武帝の時代。
其れは様々な経験や思考が「史記」の行間に満たされています。
名著の所以ですね。
又、司馬遷は「史記」を執筆するに際して、宮廷の記録を利用するだけでなく各地を見聞しています。
後漢の時代には班固が「漢書」を著しました。
形式は紀伝体で司馬遷の方法を踏襲し、「史記」が前漢の武帝の時代で終わっているので、班固は前漢の時代をその滅亡迄書き連ねました。
これ以後、後の王朝がその前の王朝の歴史を書く事が一般的に成ります。
因み班固は西域都護だった班超の兄にあたる人物です。
漢では当初儒学は低調でしたが、やがて経典が整備されます。
『詩経』(しきょう)『書経』(しょきょう)『易経』(えききょう)『春秋』(しゅんじゅう)『礼記』(らいき)の五つで、全部総称して五経(ごきょう)と云います。
是等の経典は、春秋時代から戦国時代に形成された書物ですから、漢の時代の人々にも既に意味が分かりづらく難解なものでした。
そこで、経典の解釈学が発達し、これを訓詁学(くんこがく)と呼びます。
その代表的な学者が後漢の鄭玄(じょうげん)(127年~200年)、儒学を一応理解している事が当時の名士としての条件に成る為、豪族の子弟達も、これで一所懸命勉強に励んだのです。
漢の時代の文化で絶対に忘れては成らないのは紙の発明です。
後漢の宦官、蔡倫(さいりん)が発明したといわれていますが、実際は蔡倫以前にも紙は存在した様で、蔡倫は紙を実用的に改良した人物となるのでしょう。
紙の発明が、文化の発展普及にどれ程貢献したか考えてみましょう。
中国で紙が発明される以前は、竹や木を細長く短冊状に削った物に文字を書いていました。
これを竹簡(ちくかん)、木簡(もっかん)と呼び、長さも一本50センチ位在り、これ一本には長い文章を書く事は出来ないので、何本かの短冊(たんざく)を「すのこ」のように糸で綴り、これに文を書くのです。
「冊」の字はこの形に由来し、収納時にはぐるぐる巻いておくので、これを「巻」と云います。
現在でも連続して発行される書物を一巻、二巻と呼ぶのはこの為です。
当時、竹簡、木簡は大変重量は在り、その保管も大変な場所を要しましたから、豪族や官僚でなければなかなか個人で書物を持つ事は難しかったのです。
勉強したい人物は自分が調べたい竹簡、木簡を所有している人の場所に重たい木簡抱えて行き、ひたすら書き写しました。
筆記用具は墨と筆、書き間違えたら短刀で木簡を削って書き直のです。
これが軽くて薄い紙に替わり、書物を読み、保管する事が遥かに簡単に成りました。
漢:終わり・・・

◎漢の文化その②
自分がこの様な処遇を受ける事を考えると、司馬遷は人間の生き方というものを考えざるを得なくなります。
李陵将軍を弁護した事は正しいと司馬遷は考えましたが、武帝から屈辱的な刑を受けてしまいます。人間の運命とは何なのでしょう。
上記を踏まえながら、司馬遷は歴史上の人物について伝記を執筆します。
自分の主義に忠実な為に死に追いやられた者、悪事の限りを尽くして天寿を全うした盗賊等が列伝に登場します。
武帝に刑を受けながらもその臣下として生きている司馬遷、その彼が書く漢の歴史、武帝の時代。
其れは様々な経験や思考が「史記」の行間に満たされています。
名著の所以ですね。
又、司馬遷は「史記」を執筆するに際して、宮廷の記録を利用するだけでなく各地を見聞しています。
後漢の時代には班固が「漢書」を著しました。
形式は紀伝体で司馬遷の方法を踏襲し、「史記」が前漢の武帝の時代で終わっているので、班固は前漢の時代をその滅亡迄書き連ねました。
これ以後、後の王朝がその前の王朝の歴史を書く事が一般的に成ります。
因み班固は西域都護だった班超の兄にあたる人物です。
漢では当初儒学は低調でしたが、やがて経典が整備されます。
『詩経』(しきょう)『書経』(しょきょう)『易経』(えききょう)『春秋』(しゅんじゅう)『礼記』(らいき)の五つで、全部総称して五経(ごきょう)と云います。
是等の経典は、春秋時代から戦国時代に形成された書物ですから、漢の時代の人々にも既に意味が分かりづらく難解なものでした。
そこで、経典の解釈学が発達し、これを訓詁学(くんこがく)と呼びます。
その代表的な学者が後漢の鄭玄(じょうげん)(127年~200年)、儒学を一応理解している事が当時の名士としての条件に成る為、豪族の子弟達も、これで一所懸命勉強に励んだのです。
漢の時代の文化で絶対に忘れては成らないのは紙の発明です。
後漢の宦官、蔡倫(さいりん)が発明したといわれていますが、実際は蔡倫以前にも紙は存在した様で、蔡倫は紙を実用的に改良した人物となるのでしょう。
紙の発明が、文化の発展普及にどれ程貢献したか考えてみましょう。
中国で紙が発明される以前は、竹や木を細長く短冊状に削った物に文字を書いていました。
これを竹簡(ちくかん)、木簡(もっかん)と呼び、長さも一本50センチ位在り、これ一本には長い文章を書く事は出来ないので、何本かの短冊(たんざく)を「すのこ」のように糸で綴り、これに文を書くのです。
「冊」の字はこの形に由来し、収納時にはぐるぐる巻いておくので、これを「巻」と云います。
現在でも連続して発行される書物を一巻、二巻と呼ぶのはこの為です。
当時、竹簡、木簡は大変重量は在り、その保管も大変な場所を要しましたから、豪族や官僚でなければなかなか個人で書物を持つ事は難しかったのです。
勉強したい人物は自分が調べたい竹簡、木簡を所有している人の場所に重たい木簡抱えて行き、ひたすら書き写しました。
筆記用具は墨と筆、書き間違えたら短刀で木簡を削って書き直のです。
これが軽くて薄い紙に替わり、書物を読み、保管する事が遥かに簡単に成りました。
漢:終わり・・・
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