歴史のお話その152:統一から分裂へ③
<三国時代その③>

曹 操(永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)
◎三国時代(詳しブロクも沢山在りますので、流して行きます)
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代に突入します。
一時的な統一の期間はありますが、ほぼ350年程分裂が続きます。
その最初が、有名な三国時代で、魏、呉、蜀、の三国に分裂しました。
魏(220年~265年)、都は洛陽、この魏が後漢に取って代わった国で、中国北部を支配し、三国の中で最大最強の国家です。
建国者は曹操、曹丕(そうひ)、事実上は曹操が形成した国家ですが、彼は皇帝の位に就くことなく亡くなり、息子の曹丕の代に後漢最後の皇帝から位を簒奪して、魏の初代皇帝に成りました。
その為、形式的には建国者は曹丕。
曹操はもちろん豪族出身、お爺さんが宦官で財産を築いたのですが、宦官でも養子をとって家を残すことがあるのです。
黄巾の乱鎮圧で頭角を表し、その他大勢の豪族を傘下に治めて、三国志の物語に出てくる彼の部下、武将や参謀は皆豪族出身者なのです。
それぞれ手勢を率いて曹操の配下に加わってくるのです。
曹操が強かった理由は色々とあるのですが、例えば、後漢末の群雄割拠の時代に活躍した豪族に呂布(りょふ)が居ます、
なぜ彼が強いか?
呂布は匈奴兵を率いており、彼自身も現在の内蒙古出身で遊牧民族の血を引いていたと推定されます。遊牧民は騎馬に優れて勇猛です。
その呂布無き後、その軍隊を曹操はそっくりそのまま自分の軍隊に吸収します。
更には青州兵と呼ばれる、黄巾軍の残党も自軍に編成し、兵力として何でも利用できるものは利用します。
三国時代で曹操は一番魅力的な人物と思います。
彼の魅力の根本は、従来からの儒学、道徳から解き放されているところでしょうか。
曹操は法家だとも云われ、先に党錮の禁以来「逸民」的な生き方が流行したと書きましたが、逸民というのは世間から逸脱(いつだつ)しているのです。
この逸脱の中身には、儒学的な道徳からの逸脱も含まれており、その様な意味では法家的な曹操も逸民と同じ根源を持っていると思われます。
その結果、行動にも大胆不敵で爽快なイメージがつきまといます。
政治、軍事だけでなく文学の才能をも持ち合わせた人物でした。
曹操だけでなく息子の曹丕や曹植(そうしょく)も文才は変わらず、「建安の文学」と呼ばれて中国文学史上、黄金期のひとつに数えられる時代で在り、彼等は皆「建安の文学」を代表する詩人でもあうのです。
※曹操の詩
短歌行 曹操
酒に対わば当に歌え
人生幾何やある
譬えば朝露にも如たり
去日苦も多きことよ
慨らば当にもって慷け
憂思忘れ難し
何に以てか憂を解さん
唯杜康有るのみ
……
山 高きを厭わず
海 深きを厭わず
周公哺を吐きたれば
天下心帰せたりとかや
さけにむかわばまさにうたえ
ひとのいくるやいくばくのときやある
たとえばあさつゆにもにたり
すぎにしひびさてもしげきことよ
おもいたぎらばまさにもってなげけ
こもれるおもいわすれがたし
なにによりてかむすぼれるおもいをけさん
ただうまざけあるのみ
……
やま たかきをいとわず
うみ ふかきをいとわず
しゅうこうくちのなかのたべものをはきたれば
あまがしたこころよせたりとかや
(竹内実・吉田富夫編訳「志のうた」中公新書より)
人生は朝露のように短く儚いものですが、振り返って見れば、色々な出来事が思い出されて、胸が痛い。
そんな時には美味い酒を飲んでうたおうではないか。
山は高いことを嫌がらないし、海は深いことを嫌がらない。
周の建国の功臣、周公旦(しゅうこうたん)は仕官したい者や政治について意見を持つ人が訪れれば、食事中であっても口の中のモノを吐き出してまでもすぐに面会した。
だから、皆が心服したのだ。
意味は上記の通りですが、周公旦に自分を重ねているのは理解できます。
山が高いように、海が深いように、周公旦がそうであるように、俺、曹操もそのようにあるのだ。
彼の意気込みが伝わって来ます。
三国時代:続く・・・

曹 操(永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)
◎三国時代(詳しブロクも沢山在りますので、流して行きます)
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代に突入します。
一時的な統一の期間はありますが、ほぼ350年程分裂が続きます。
その最初が、有名な三国時代で、魏、呉、蜀、の三国に分裂しました。
魏(220年~265年)、都は洛陽、この魏が後漢に取って代わった国で、中国北部を支配し、三国の中で最大最強の国家です。
建国者は曹操、曹丕(そうひ)、事実上は曹操が形成した国家ですが、彼は皇帝の位に就くことなく亡くなり、息子の曹丕の代に後漢最後の皇帝から位を簒奪して、魏の初代皇帝に成りました。
その為、形式的には建国者は曹丕。
曹操はもちろん豪族出身、お爺さんが宦官で財産を築いたのですが、宦官でも養子をとって家を残すことがあるのです。
黄巾の乱鎮圧で頭角を表し、その他大勢の豪族を傘下に治めて、三国志の物語に出てくる彼の部下、武将や参謀は皆豪族出身者なのです。
それぞれ手勢を率いて曹操の配下に加わってくるのです。
曹操が強かった理由は色々とあるのですが、例えば、後漢末の群雄割拠の時代に活躍した豪族に呂布(りょふ)が居ます、
なぜ彼が強いか?
呂布は匈奴兵を率いており、彼自身も現在の内蒙古出身で遊牧民族の血を引いていたと推定されます。遊牧民は騎馬に優れて勇猛です。
その呂布無き後、その軍隊を曹操はそっくりそのまま自分の軍隊に吸収します。
更には青州兵と呼ばれる、黄巾軍の残党も自軍に編成し、兵力として何でも利用できるものは利用します。
三国時代で曹操は一番魅力的な人物と思います。
彼の魅力の根本は、従来からの儒学、道徳から解き放されているところでしょうか。
曹操は法家だとも云われ、先に党錮の禁以来「逸民」的な生き方が流行したと書きましたが、逸民というのは世間から逸脱(いつだつ)しているのです。
この逸脱の中身には、儒学的な道徳からの逸脱も含まれており、その様な意味では法家的な曹操も逸民と同じ根源を持っていると思われます。
その結果、行動にも大胆不敵で爽快なイメージがつきまといます。
政治、軍事だけでなく文学の才能をも持ち合わせた人物でした。
曹操だけでなく息子の曹丕や曹植(そうしょく)も文才は変わらず、「建安の文学」と呼ばれて中国文学史上、黄金期のひとつに数えられる時代で在り、彼等は皆「建安の文学」を代表する詩人でもあうのです。
※曹操の詩
短歌行 曹操
酒に対わば当に歌え
人生幾何やある
譬えば朝露にも如たり
去日苦も多きことよ
慨らば当にもって慷け
憂思忘れ難し
何に以てか憂を解さん
唯杜康有るのみ
……
山 高きを厭わず
海 深きを厭わず
周公哺を吐きたれば
天下心帰せたりとかや
さけにむかわばまさにうたえ
ひとのいくるやいくばくのときやある
たとえばあさつゆにもにたり
すぎにしひびさてもしげきことよ
おもいたぎらばまさにもってなげけ
こもれるおもいわすれがたし
なにによりてかむすぼれるおもいをけさん
ただうまざけあるのみ
……
やま たかきをいとわず
うみ ふかきをいとわず
しゅうこうくちのなかのたべものをはきたれば
あまがしたこころよせたりとかや
(竹内実・吉田富夫編訳「志のうた」中公新書より)
人生は朝露のように短く儚いものですが、振り返って見れば、色々な出来事が思い出されて、胸が痛い。
そんな時には美味い酒を飲んでうたおうではないか。
山は高いことを嫌がらないし、海は深いことを嫌がらない。
周の建国の功臣、周公旦(しゅうこうたん)は仕官したい者や政治について意見を持つ人が訪れれば、食事中であっても口の中のモノを吐き出してまでもすぐに面会した。
だから、皆が心服したのだ。
意味は上記の通りですが、周公旦に自分を重ねているのは理解できます。
山が高いように、海が深いように、周公旦がそうであるように、俺、曹操もそのようにあるのだ。
彼の意気込みが伝わって来ます。
三国時代:続く・・・
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