歴史のお話その153:統一から分裂へ④
<三国時代その④>

◎「三顧(さんこ)の礼」
魏の政策制度では屯田制と九品中正法が有名です。
屯田制は後漢末の戦乱で混乱した農業生産を回復させる為の土地制度で在り、九品中正法は漢の郷挙里選に変わる官吏登用制度です。
地方に中正官をおいて、中正官が地方の人物を九等級に分けて中央に推薦し、中央政府はこれにもとづいて役人を採用していきます。
後漢末、中国北部を統一した曹操は南方に侵攻し、これを迎え撃ったのが孫権、劉備の連合軍でした。
長江中流域で決戦になるのですが水軍に不慣れな曹操軍は大敗します。
これが有名な赤壁の戦い(208年)で、この敗北で曹操は統一を断念し、中国の分裂が決定的になりました。
孫権が長江下流を中心に建国したのが呉(222年~280年)、首都は建業、これは現在の南京に成ります。
この国も南方土着豪族の勢力を結集して建国されました。
劉備が現在の四川省を中心に建国した国家が蜀(221年~263年)、首都は成都。
この人物こそは有名な『三国志演義』の主人公です。
関羽、張飛等の豪傑を従えて黄巾の乱の鎮圧に活躍し、やがて諸葛亮という軍師を迎えて蜀の君主に成ります。
物語も現実も筋書きは同じでが、彼等の歴史上の事実よりも物語での活躍の方が有名に成ってしまい、虚構が現実と混同されている様です。
中国でも古くから講談や演劇の題材になり、今でもテレビドラマや映画になっていることは、ご存意の通りです。
とくに劉備の武将関羽は人望が在り、神として祭られ、関帝廟が存在しており、蓄財の神様に成っています。
有名な軍師の諸葛亮は物語の中では、桁外れた知謀の持ち主で彼の立案した作戦や政策は正確に的をついて劉備を一国の君主に押し上げていくわけですが、劉備が諸葛亮を自分の家臣に加えた訳は、以下の物語が在ります。
劉備は早くから関羽、張飛などと一旗揚げて活躍し、有名になっていくのですが、なかなか曹操や孫権のように一国一城の主として自分の地盤を作ることが出来ません。
各地で地方の太守の居候(いそうろう)、客将暮らしを続けていた時のこと、諸葛亮という知謀の士がいることを耳にしました。
彼を家臣に加えることができれば、自分も大きく発展することができるだろうと考えるのですが、諸葛亮は田舎に篭って誰にも仕えていません。
劉備は諸葛亮の隠遁場所を訪ねるのですが、諸葛亮は不在、劉備は諦めきれず、もう一度自ら出向いて行きますが、再度不在でした。
普通なら諦めるところですが、何とかして自分の参謀に迎えたい思いは一層強く、もう一回訪ねていきます。
これが三回目。
三度目の正直では在りませんが、やっと在宅中でした。
ところが、諸葛亮は昼寝の最中で、劉備は昼寝の邪魔をしては諸葛亮先生に申し訳ないと思い、目覚める迄じっと待ったのです。
やがて、諸葛亮目が覚め、三度も自ら訪ねてきてくれた上に、しかも自分が寝ているのを起こそうともせずに待っていてくれたことに、すっかり感激して劉備に仕えることに成りました。
これが三顧の礼の由来です。
これは物語としての「三国志」の山場のひとつなのですが、実話とも云われています。
では劉備とは一体何者なのでしょう。
彼は漢の皇帝家の血筋を引いていることに成っていますが、偶然姓が劉氏であるだけで、一般庶民出身です。
田舎では筵(むしろ)売りをしていましたが、黄巾の乱で機会を得て、成り上がっていくのですが、所詮身分が低い。
後漢が崩壊していく過程で地方権力を打ち立てていくのはみな豪族でした。
曹操も豪族、孫権も豪族、しかし劉備は違います。
諸葛亮は大豪族の一員ですが、諸葛家は中国全土に知られた大豪族でした。
諸葛亮には兄も居り、その兄は呉の孫権に仕え、大臣にまでなっています。
又従兄弟(またいとこ)は曹操に仕えていることから、魏や呉にとっても諸葛一族は自分の味方にしておきたいような大豪族、諸葛亮はそういう豪族の一員なのです。
劉備が諸葛亮を家臣にできれば、「諸葛一族の諸葛亮が劉備に仕えたのならば、劉備も豪族仲間の味方と考えて良いだろう」と全国の豪族勢力に認知されることになるのです。
実際、諸葛亮を迎えてからの劉備は早い期間で蜀の国を建てます。
蜀の地方の豪族達が、彼を君主として仰ぐことに賛同した背景には諸葛亮の存在は大きかったと思います。
これほどに、豪族の力を無視しては何もできなかった時代だったのです。
逆にいえば、誰も全国の豪族勢力をひとつにまとめられなかったから中国が分裂したのでした。
三国時代:続く・・・

◎「三顧(さんこ)の礼」
魏の政策制度では屯田制と九品中正法が有名です。
屯田制は後漢末の戦乱で混乱した農業生産を回復させる為の土地制度で在り、九品中正法は漢の郷挙里選に変わる官吏登用制度です。
地方に中正官をおいて、中正官が地方の人物を九等級に分けて中央に推薦し、中央政府はこれにもとづいて役人を採用していきます。
後漢末、中国北部を統一した曹操は南方に侵攻し、これを迎え撃ったのが孫権、劉備の連合軍でした。
長江中流域で決戦になるのですが水軍に不慣れな曹操軍は大敗します。
これが有名な赤壁の戦い(208年)で、この敗北で曹操は統一を断念し、中国の分裂が決定的になりました。
孫権が長江下流を中心に建国したのが呉(222年~280年)、首都は建業、これは現在の南京に成ります。
この国も南方土着豪族の勢力を結集して建国されました。
劉備が現在の四川省を中心に建国した国家が蜀(221年~263年)、首都は成都。
この人物こそは有名な『三国志演義』の主人公です。
関羽、張飛等の豪傑を従えて黄巾の乱の鎮圧に活躍し、やがて諸葛亮という軍師を迎えて蜀の君主に成ります。
物語も現実も筋書きは同じでが、彼等の歴史上の事実よりも物語での活躍の方が有名に成ってしまい、虚構が現実と混同されている様です。
中国でも古くから講談や演劇の題材になり、今でもテレビドラマや映画になっていることは、ご存意の通りです。
とくに劉備の武将関羽は人望が在り、神として祭られ、関帝廟が存在しており、蓄財の神様に成っています。
有名な軍師の諸葛亮は物語の中では、桁外れた知謀の持ち主で彼の立案した作戦や政策は正確に的をついて劉備を一国の君主に押し上げていくわけですが、劉備が諸葛亮を自分の家臣に加えた訳は、以下の物語が在ります。
劉備は早くから関羽、張飛などと一旗揚げて活躍し、有名になっていくのですが、なかなか曹操や孫権のように一国一城の主として自分の地盤を作ることが出来ません。
各地で地方の太守の居候(いそうろう)、客将暮らしを続けていた時のこと、諸葛亮という知謀の士がいることを耳にしました。
彼を家臣に加えることができれば、自分も大きく発展することができるだろうと考えるのですが、諸葛亮は田舎に篭って誰にも仕えていません。
劉備は諸葛亮の隠遁場所を訪ねるのですが、諸葛亮は不在、劉備は諦めきれず、もう一度自ら出向いて行きますが、再度不在でした。
普通なら諦めるところですが、何とかして自分の参謀に迎えたい思いは一層強く、もう一回訪ねていきます。
これが三回目。
三度目の正直では在りませんが、やっと在宅中でした。
ところが、諸葛亮は昼寝の最中で、劉備は昼寝の邪魔をしては諸葛亮先生に申し訳ないと思い、目覚める迄じっと待ったのです。
やがて、諸葛亮目が覚め、三度も自ら訪ねてきてくれた上に、しかも自分が寝ているのを起こそうともせずに待っていてくれたことに、すっかり感激して劉備に仕えることに成りました。
これが三顧の礼の由来です。
これは物語としての「三国志」の山場のひとつなのですが、実話とも云われています。
では劉備とは一体何者なのでしょう。
彼は漢の皇帝家の血筋を引いていることに成っていますが、偶然姓が劉氏であるだけで、一般庶民出身です。
田舎では筵(むしろ)売りをしていましたが、黄巾の乱で機会を得て、成り上がっていくのですが、所詮身分が低い。
後漢が崩壊していく過程で地方権力を打ち立てていくのはみな豪族でした。
曹操も豪族、孫権も豪族、しかし劉備は違います。
諸葛亮は大豪族の一員ですが、諸葛家は中国全土に知られた大豪族でした。
諸葛亮には兄も居り、その兄は呉の孫権に仕え、大臣にまでなっています。
又従兄弟(またいとこ)は曹操に仕えていることから、魏や呉にとっても諸葛一族は自分の味方にしておきたいような大豪族、諸葛亮はそういう豪族の一員なのです。
劉備が諸葛亮を家臣にできれば、「諸葛一族の諸葛亮が劉備に仕えたのならば、劉備も豪族仲間の味方と考えて良いだろう」と全国の豪族勢力に認知されることになるのです。
実際、諸葛亮を迎えてからの劉備は早い期間で蜀の国を建てます。
蜀の地方の豪族達が、彼を君主として仰ぐことに賛同した背景には諸葛亮の存在は大きかったと思います。
これほどに、豪族の力を無視しては何もできなかった時代だったのです。
逆にいえば、誰も全国の豪族勢力をひとつにまとめられなかったから中国が分裂したのでした。
三国時代:続く・・・
スポンサーサイト
コメント