2013/07/05

歴史のお話その154:統一から分裂へ番外

<三国時代番外>

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◎曹操は悪人だったのか

 3世紀の中国、後漢の帝国は名目を保っているに過ぎませんでした。
皇帝は、在位していても如何なる権力も無く、只、形の上で皇帝の座を保って居るだけでした。

 群雄割拠し、天下を争い、その中で最後迄残った3人の英雄が、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備でした。
この3人の中で、曹操は大悪人、乱世の姦雄と昔から決まっており、あらゆる策略を巡らして、敵対者を倒し、終に魏王となって、暴虐の限りをつくす、形だけは、漢の皇帝をいただいていたものの、実権の全ては曹操が握っていました。
既に漢の天下は、魏王に奪われたも同然でした。

 220年、曹操が崩御すると、即位した子の曹丕は、漢の帝位を廃して、自ら魏の皇帝を名乗ります。
即ち、文帝であり、ここに漢の国は、名実供に滅亡したのでした。
之に対抗したのが、孫権であり劉備で、特に劉備は一世の英傑、その姓が劉氏である事からも、漢の皇室と同族であり、曹氏に奪われた漢の天下を回復する為、あくまで戦おうと、221年、自らも即位して、漢の皇帝たる事を宣言し、蜀漢の照烈帝となりました。

 劉備の処には、豪傑あり、謀将あり。
特に高明なのは、張飛と関羽、そして諸葛孔明、その生涯を劉氏の為、漢帝国の復興の為に捧げました。
しかし、蜀の地は中国の西方に位置し、人口も100万に達する事は無く、その国力は、魏に比べるも無かったのでした。
やがて、人口440万を擁する魏は、じりじりと蜀を圧迫し、263年蜀も二代にして滅亡してしまいます。

 呉は、江南を保って、人口130万、魏に対抗して、孫権も皇帝を称しましたが、やはり北方の強国、魏の大勢力には対抗できず、四代を保ったものの魏の後を受けた晋によって280年に滅亡します・

 魏呉蜀三国の興亡は、「三国志演義」が著されて以来、広く中国の民衆に好まれ、日本でも大変良く読まれたのです。
劉備は正しく、曹操は悪人と云う事が、この物語を貫く一本の太い筋で、日本に置き換えれば、後醍醐天皇と足利尊氏と言えるでしょう。
人々は、正しい劉備や諸葛孔明の悲運に涙し、あくまでも悪くて、強い曹操を歯がみして苦やしがりました。

 しかし、其れは歴史の真実な姿でしょうか?
劉備が正しいのは、漢の皇帝一族の出身であるとの理由ですが、実際には、劉備の生い立ち先に述べた通りです。
彼の祖父は、地方長官の役を得ていましたが、父親は早くに亡くなり、家は貧しく、その家系も偶然、劉氏で在った事から、漢の皇帝一族としたらしいのです。

 一方、曹操は、名実供に名家で、その父曹崇は、大変な資産家であり、漢の朝廷に仕えて大尉(大臣)の位を頂き、更に祖父は宦官の巨頭で、宦官として宮中に権力をふるったのでした。
宦官ですから実子ではなく、曹崇は養子で在り、曹操は名家の出身でも宦官の子孫という屈辱を背負っていました。

 ところで、生い立ちは別として、曹操は果たして極悪非道の人物で在ったのでしょうか?
確かに漢の天下を簒奪したのですから、主従の関係からも良くない事には違いないとしても、前王朝を倒して実力で皇帝の地位を得た者は、曹操だけの話では無く、劉備も同様と思います。
では、曹操は強いばかりの豪傑で在ったのかと云えば、彼は、書を好み、兵法に関して当代に並ぶ者の無い学者在り、更に文学の世界に至っては、天成の詩人で在りました。
その詩篇の数々は、今日に至る迄愛誦されています。

 「月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは、これ曹孟得(曹操)の詩にあらずや。・・・酒をそそいで江にのぞみ、槊を横たえて詩を賦す。もとより一世の雄なり」

 宋代の詩人、蘇東坡も「赤壁の賦」のなかで、この様に詠い、曹操の長子である曹丕(文帝)も次子たる植も、ともに詩文の天才で在り、父子ともに詩文の歴史に与えた影響は、極めて大きいものがありました。

 では、曹操に関する悪評は、「三国志演義」の創作にすぎないのか?之も又否なのです。
物語として、形が整えられる以前に、講釈が在り、町の辻で講釈師が語り聞かせ、その重要な題材が、三国志の物語で在り、確かに宋代には、曹操は悪人の藻本とさえ、されていました。

 更に魏晋の時代、つまり曹操と同じ時代から、その評判は、良からぬもので、曹操の人格に関する悪評が多く、地代を経る毎に悪評を重なって行きました。
しかし、同世代の人物、陳寿が著した「三国志」は、流石に歴史書なので、決して曹操を非難せず、その構成からも三国の内で正当とされたのは、曹氏の魏で在りました。
「三国志」において、曹操や曹丕は、皇帝として扱われ、劉備や孫権は違うのです。
皇帝たる者と然らざる者とでは、文書の書き方も違い、しかも陳寿は、蜀の遺臣なのでした。

 其れが地代の経過と供に、蜀漢が正当とされ、劉備や諸葛孔明のみが同情される事と成ったのが、「三国志演義」で在って、そもそも曹操を悪人とし、更に極悪人に仕立てたのは、誰の仕業なのでしょうか?
其れとも、地代の風潮だったのかも知れません。

三国時代:終わり・・・


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