2013/07/09

歴史のお話その156:分裂の時代②

<魏晋南北朝時代②>

匈奴征战图

◎西晋から東晋

 西晋(265年~316年)、建国者は司馬炎、この人物の祖父が「三国志演義」で曹操の信頼を得た大将軍、司馬懿(しばい)です。

 因みに司馬懿は蜀の諸葛亮が魏への侵攻を防衛して名を挙げて、諸葛亮の死後は東方の遼東半島にあった公孫氏の独立政権を滅ぼします。
この結果、朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入り、そこにやってくるのが倭の邪馬台国の使者です。
有名な「魏志倭人伝」はこの魏の国の歴史書の一部分で、歴史に「若し」は禁物と云われますが、若し、諸葛亮が死なず、司馬懿が蜀との国境に布陣したままで在ったなら、朝鮮半島は魏の勢力範囲には入らず、魏の歴史書に邪馬台国の記録は残されなかったもしれません。

 司馬懿は魏の国で実力者と成り、彼の子も、孫である司馬炎も魏の大将軍の地位を握りつづけます。魏は曹操、曹丕は力がありましたがそれ以後は無力な皇帝が相次ぎ、次第に司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋を建てることに成りました。

 従って、司馬炎は祖父の遺産で皇帝の座を射止めたので在って、大人物では在りません。
即位すると怠惰な生活に一気に傾いた様ですが、それでも280年には呉を滅ぼし天下統一なされますが、彼の無き後帝位を巡って王族どうしの内紛が発生します。
八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱を起、これを八王の乱(291年~306年)と呼びます。

 この王達は、相手を倒す為には自分の軍事力を強力にすれば良いので、そのための手段として周辺の異民族の力を導入しました。
遊牧系の民族は中国兵よりも強く、各部族の長達を上手く誘って、配下として戦わせました。
遊牧部族の者達は、最初晋の王族の下で戦うのですが、中国人は弱く、此処で何も中国人の命令を聞いて行動しなくとも、自らの部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てることができる、と考え始めたのです。
遂には、晋の王族に連合していない部族まで移住が始まり、晋国内は大混乱に陥り、最終的に晋は滅亡したのでした。

 この時に中国内に入境した異民族が五胡と呼ばれます。
匈奴、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、テイ、羌(きょう)です。
テイと羌はチベット系の民族、鮮卑はモンゴル系、匈奴は民族系統不明、羯は匈奴の別種と思われます。 

 遊牧系民族が国を建てた結果、華北では農村荒廃が進行し、五胡どうしの争いも続きました。
華北の豪族達は、配下の農民達を引き連れて南に逃れます。

 華南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)が逃れて東晋を建国、都は建康、華南にはまだ開発されていない土地が可也存在し、東晋政府はその土地を逃れてきた豪族達に割り当てていきます。
其処が豪族たちの新たな地盤となりますが、華南には華南土着の豪族もいます。
かつては呉政権を支えた人々で、土着豪族と新参の豪族は当然ながら、不協和音が伴いました。
東晋の皇帝はこの様な豪族達の微妙な人間関係の上に立って政権を維持していったのです。
しかも、北には五胡の圧迫が常に存在していました。

魏晋南北朝時代:続く・・・

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