歴史のお話その157:分裂の時代③
<魏晋南北朝時代③>

◎北魏
五胡の民族は間断なく南方に侵略してきます。
一方東晋王朝は侵入を阻止しなければならず、機会が在れば華北を奪還したいのは当然でした。
従って、如何なる努力を払っても、軍事力を強化しなければならならず、やがては、この軍人達が政治的な発言権を持つように成り、それは更に王朝権力を不安定なものにして行きました。
東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を簒奪した建国した国家です。
華北で五胡の短命地方政権が興亡を繰り返しているなかに、徐々に勢力を拡大した勢力が北魏で、鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が建国者、この拓跋氏という部族の族長です。
この北魏が五胡十六国の分裂状態を終結させ、華北を統一したのが439年。
太武帝(たいぶてい)統治の時代でした。
この間に北魏は華北支配の基礎を固め、当然漢人豪族の協力も得ていくことに成ります。
鮮卑人の数は漢人に比べれば微々たるもので、漢民族豪族の協力がなければ中国支配は不可能です。華南に逃れずに北部に留まり続けた豪族勢力も当然存在し、北魏の皇帝一族も漢人との結びつきを強める為に漢人豪族と婚姻関係を結んでいきました。
この様な状況の中で登場するのが、北魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(在位471年~499年)です。
孝文帝は当然鮮卑族ですが、帝の母親は漢民族、彼の祖母も漢民族なので、どの民族の属するのかと云う問題は、実質的にはあまり意味が在りません。
北魏の国家を鮮卑族の国家から、民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することなど不可能なので、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました。
具体的には首都を辺境の地、平城(へいじょう)(山西省大同)から、洛陽に遷都、宮廷で鮮卑語の使用を禁じ、鮮卑族の軍人や役人は総て中国語(漢民族の言葉)を話さなければ成りません。
名前も中国風に改名し、皇帝一族自身も拓跋という姓を元一字姓に変更しています。
この政策には、鮮卑族有力者達の当然の反対抵抗も在ったのですが、孝文帝は改革を推進したのです。
実話なのか逸話なのか区別できませんが、変わった話が伝えられています。
鮮卑族の拓跋氏には一つの風習がありました。
皇帝の生母を殺すという風習で、これは外戚が権力を持つことを避ける為にずっと前から実行されていたと云います。
孝文帝は幼少で即位するのですが、その結果かれの母親は殺されている訳です。
中国の儒学的発想から見れば考えられない野蛮な行為で、親には「孝」が中国的な道徳です。
孝文帝は血統から見れば、鮮卑族の血よりも漢族の血の方が濃く、鮮卑族の風習と同じように中国の儒学的な発想も身につけていたに違いないと思われます。
両方の価値感を持ち、常識的に考えて自分の母親が殺されて悲しくない訳はなく、孝文帝の場合は母の死は自分の即位が原因な訳で、彼は鮮卑族の風習を忌み嫌ったに違いないと私は想像します。
その様な背景を考察すれば、孝文帝の漢化政策は理解できると思います。
魏晋南北朝時代:続く・・・

◎北魏
五胡の民族は間断なく南方に侵略してきます。
一方東晋王朝は侵入を阻止しなければならず、機会が在れば華北を奪還したいのは当然でした。
従って、如何なる努力を払っても、軍事力を強化しなければならならず、やがては、この軍人達が政治的な発言権を持つように成り、それは更に王朝権力を不安定なものにして行きました。
東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を簒奪した建国した国家です。
華北で五胡の短命地方政権が興亡を繰り返しているなかに、徐々に勢力を拡大した勢力が北魏で、鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が建国者、この拓跋氏という部族の族長です。
この北魏が五胡十六国の分裂状態を終結させ、華北を統一したのが439年。
太武帝(たいぶてい)統治の時代でした。
この間に北魏は華北支配の基礎を固め、当然漢人豪族の協力も得ていくことに成ります。
鮮卑人の数は漢人に比べれば微々たるもので、漢民族豪族の協力がなければ中国支配は不可能です。華南に逃れずに北部に留まり続けた豪族勢力も当然存在し、北魏の皇帝一族も漢人との結びつきを強める為に漢人豪族と婚姻関係を結んでいきました。
この様な状況の中で登場するのが、北魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(在位471年~499年)です。
孝文帝は当然鮮卑族ですが、帝の母親は漢民族、彼の祖母も漢民族なので、どの民族の属するのかと云う問題は、実質的にはあまり意味が在りません。
北魏の国家を鮮卑族の国家から、民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することなど不可能なので、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました。
具体的には首都を辺境の地、平城(へいじょう)(山西省大同)から、洛陽に遷都、宮廷で鮮卑語の使用を禁じ、鮮卑族の軍人や役人は総て中国語(漢民族の言葉)を話さなければ成りません。
名前も中国風に改名し、皇帝一族自身も拓跋という姓を元一字姓に変更しています。
この政策には、鮮卑族有力者達の当然の反対抵抗も在ったのですが、孝文帝は改革を推進したのです。
実話なのか逸話なのか区別できませんが、変わった話が伝えられています。
鮮卑族の拓跋氏には一つの風習がありました。
皇帝の生母を殺すという風習で、これは外戚が権力を持つことを避ける為にずっと前から実行されていたと云います。
孝文帝は幼少で即位するのですが、その結果かれの母親は殺されている訳です。
中国の儒学的発想から見れば考えられない野蛮な行為で、親には「孝」が中国的な道徳です。
孝文帝は血統から見れば、鮮卑族の血よりも漢族の血の方が濃く、鮮卑族の風習と同じように中国の儒学的な発想も身につけていたに違いないと思われます。
両方の価値感を持ち、常識的に考えて自分の母親が殺されて悲しくない訳はなく、孝文帝の場合は母の死は自分の即位が原因な訳で、彼は鮮卑族の風習を忌み嫌ったに違いないと私は想像します。
その様な背景を考察すれば、孝文帝の漢化政策は理解できると思います。
魏晋南北朝時代:続く・・・
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