歴史のお話その162:分裂から統一へ①
<統一国家の成立・隋①>

◎隋の中国統一
長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋です。
時代は北魏の孝文帝が漢化政策を実行した頃です。
実はこの漢化政策に不満を持った、辺境地域の軍人達が居り、彼等の反乱によって北魏は東西に分裂しました。
この軍人達は辺境防衛で苦労をともにし、強い団結力を持っていましたが、人種的には鮮卑系等の北方民族と、北方民族化した漢族が渾然一体となっています。
この軍人達が北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団に成ります。
彼等は質実剛健な雰囲気を持ち続け、東魏、北斉政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱化していきますが、北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化にあまり影響されなかったのです。
隋の建国者は楊堅(ようけん)、後の文帝と成ります。
この人物は北周皇帝の外戚で、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てます。
もともと楊堅も北周皇帝家も北魏時代の軍人仲間のグループなので、王朝が隋に代わっても基本的な政策の変更は殆ど無く、支配者層のも変化は在りませんでした。
やがて、楊堅の隋は北斉、陳を滅ぼして統一を成し遂げるのです。
楊堅は漢民族と伝えられますが、生活文化はかなり北方民族化していた様です。
伴侶は独孤(どっこ)氏と云い、鮮卑族の有力貴族出身です。
従って、隋と云う統一王朝は、中国が北方民族の風俗習慣を吸収消化して生まれたものと考えたらよいと思います。
さて、此れまで中国文化、漢民族等の単語を使ってきましたが、中国文化は常に周辺の民族の文化を取り入れて発展してきた文化です。
漢民族も、周辺民族を取り込んでその範囲が次々の拡大した民族なのです。
漢帝国が崩壊してから隋の統一迄の長い分裂時代に、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら発展進化して行きました。
因みに、隋が滅んだ後を継ぐのが唐です。
唐は広大な範囲を支配下に置き、大唐文化圏を形成していきます。
日本からも遣唐使が派遣され、阿倍仲麻呂の様に、唐に入朝以後、唐の皇帝に認められ、唐の官僚として生活しました。
唐は、その人間が何民族の出身であるかは、全然問題にしない国家で、北魏、西魏、北周という流れの中で、いわゆる中国人と北方民族が融合していった、その流れが隋、唐という国の基本的な姿勢にも現れていると思います。
統一国家の成立・続く・・・

◎隋の中国統一
長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋です。
時代は北魏の孝文帝が漢化政策を実行した頃です。
実はこの漢化政策に不満を持った、辺境地域の軍人達が居り、彼等の反乱によって北魏は東西に分裂しました。
この軍人達は辺境防衛で苦労をともにし、強い団結力を持っていましたが、人種的には鮮卑系等の北方民族と、北方民族化した漢族が渾然一体となっています。
この軍人達が北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団に成ります。
彼等は質実剛健な雰囲気を持ち続け、東魏、北斉政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱化していきますが、北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化にあまり影響されなかったのです。
隋の建国者は楊堅(ようけん)、後の文帝と成ります。
この人物は北周皇帝の外戚で、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てます。
もともと楊堅も北周皇帝家も北魏時代の軍人仲間のグループなので、王朝が隋に代わっても基本的な政策の変更は殆ど無く、支配者層のも変化は在りませんでした。
やがて、楊堅の隋は北斉、陳を滅ぼして統一を成し遂げるのです。
楊堅は漢民族と伝えられますが、生活文化はかなり北方民族化していた様です。
伴侶は独孤(どっこ)氏と云い、鮮卑族の有力貴族出身です。
従って、隋と云う統一王朝は、中国が北方民族の風俗習慣を吸収消化して生まれたものと考えたらよいと思います。
さて、此れまで中国文化、漢民族等の単語を使ってきましたが、中国文化は常に周辺の民族の文化を取り入れて発展してきた文化です。
漢民族も、周辺民族を取り込んでその範囲が次々の拡大した民族なのです。
漢帝国が崩壊してから隋の統一迄の長い分裂時代に、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら発展進化して行きました。
因みに、隋が滅んだ後を継ぐのが唐です。
唐は広大な範囲を支配下に置き、大唐文化圏を形成していきます。
日本からも遣唐使が派遣され、阿倍仲麻呂の様に、唐に入朝以後、唐の皇帝に認められ、唐の官僚として生活しました。
唐は、その人間が何民族の出身であるかは、全然問題にしない国家で、北魏、西魏、北周という流れの中で、いわゆる中国人と北方民族が融合していった、その流れが隋、唐という国の基本的な姿勢にも現れていると思います。
統一国家の成立・続く・・・
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