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2013/07/17

歴史のお話その163:分裂から統一へ②

<統一国家の成立・隋②>

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◎隋の政策

 都は大興城ですが、長安の名称の方が有名です。
土地制度は北魏より引き続いて均田制、税制は租庸調制です。
均田制によって国家から土地を支給されている農民を均田農民と呼び、均田農民が国家から土地を支給されるかわりに、国家に対して納めるのが租庸調(そようちょう)です。
租は穀物で納める税、庸は労働力で納める税、一年のうち一定期間政府に労働奉仕し、調は各地の特産物などで支払う税です。

 更に均田農民には兵役が在り、均田農民によって編成される兵制を府兵制と呼びます。

 均田制と租庸調制、府兵制は一体で実施されて効果が上がる制度で在り、この制度によって、王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れることを可能としました。
北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が隋の時代に実が結んだのです。

 官僚登用制度は「選挙」。
試験による官僚登用制度で、この制度が発展して後の宋の時代に科挙(かきょ)と呼ばれるようになります。
隋の時代は選挙で採用される官僚の数は未だ少なく、家柄によらず人物を選ぶ試験を始めた事実は、高く評価されます。

 貴族も官僚として活躍していますが、隋の時代からは貴族出身官僚を地方官に任命しなく成りました。
地方の地盤を重視した結果で、貴族は豪族的な面を徐々に無くして行き、王朝に寄生する存在に近づいていきます。
後漢滅亡後の課題であった皇帝権力の強化はこの様な形で実現していくのです。

 4世紀に渡る分裂の間に江南地方、長江南方の地域は南朝によって開発され、農業生産が伸びていました。
隋はこの地域を中国北部に結びつける為に大運河を建設します。
南は長江南方の杭州から現在の北京近くまで全長1500キロメートルにも成ります。

 大運河は南北中国の経済の大動脈として以後の社会に欠かせないものとなっていきます。
後の唐の繁栄は、この運河の恩恵なのです。

 文帝楊堅を継いで隋の二代目の皇帝に就いた人物が煬帝(ようだい)です。
煬帝は暴虐な皇帝であるという評価が一般的で、帝という字を「てい」と呼ばずに、格落ちの意味で「だい」と読むようになっているのです。
煬という文字も、非常に縁起の良くない悪い意味の字で、隋に代わった唐にとって煬帝を非難して自らの王朝を正当化する必要もあったのでしょう。

 実際の煬帝はそれほど暴君なのか言えばと、贅沢三昧が悪いとすれば其れは普通です。
南朝では皇帝の名前に値しない人物は、沢山居ましたから・・・。

 ただ煬帝が人民を徹底的に徴発した事には恨みを買いました。
大運河の開削工事で農民を人夫として徴発し、普通土木工事に駆り出されるのは男と決まっているのですが、大運河開削には女性も動員され、これは前代未聞の出来事でした。

 対外戦争では、高句麗遠征を三回おこない、全て失敗し、この戦争とその準備で多くの人民が命を失いました。

 高句麗は隋の東北方面、現在の朝鮮半島北部から中国東北部にかけて領土を保ち、煬帝は遠征の為の物資をタク郡(現在の北京付近)に集めるのですが、南方から物資を輸送する為に黄河からタク郡までの運河を掘削させます。 
この様な民衆の負担の激増で、各地で農民反乱や有力者の反乱が起きて隋は滅びる事になるのです。

統一国家の成立・続く・・・

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