2013/07/18

歴史のお話その164:分裂から統一へ③

<統一国家の成立・隋③>

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◎高句麗遠征
   
 南北朝時代、中国の北方で大きな勢力を持っていた遊牧民族が突厥(とっけつ)でした。
トルコ系民族で突厥の名は、トルコを音訳したものです。
この突厥は隋が成立するのと同じ時期に東西に分裂して、東突厥は隋に臣従しましたが、高句麗は隋に臣従しません。

 反対に隋に隠れて突厥に密使を送り、その様な事情から煬帝は高句麗遠征を企てたのです。

  第一回高句麗遠征が612年、110万をこえる隋軍が出兵し、一方攻め込まれる高句麗は国家の存亡に直面に必至の抵抗を試みます。
この時は、隋軍は無理な作戦が災いして敗北、撤退しました。
之を「薩水の戦い」と呼び、領内に深入りした隋軍を高句麗軍が破った戦いでした。

 韓国や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では隋の侵略を三度撃退した事は、民族の栄光の戦いと見なしています。
現在の韓国や北朝鮮の人達が高句麗人直系の子孫か否かは簡単には分からなく成っています。

 第二回目の高句麗遠征は613年、この時は後方で物資輸送に当たっていた担当大臣が反乱をおこして撤兵、隋の政権内部の乱れが目立ってきます。
又、各地で民衆反乱が起きはじめていました。

 第三回は614年、この年に成ると民衆反乱が大規模に成り、高句麗遠征行う状況では在りません。高句麗側はその事実を見越して形だけの降伏をして、煬帝はそれを機会に撤兵しました。
各地の反乱は激しさを増し、煬帝は大混乱の中で親衛隊長に暗殺され、618年に隋は滅びました。

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◎倭国の国書 

 隋の煬帝は倭国との関係で有名なエピソードが在ります。
607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡り、彼は国書を煬帝に渡しますが、その冒頭の文句が「日出(い)づるところの天子、書を日没するところの天子に致(いた)す。つつがなきや・・・」。

 これを読んで煬帝は激怒し、もう二度と倭国の使者入朝を拒否したのです。
怒りの原因は、この文面は中国の皇帝と倭国の王が同格であつかわれているからで、中華的発想では、周辺民族は中国よりもランクが下、中華文明を慕ってやってくるものでなければならず、倭国の手紙はそのような外交的常識から外れたはなはだ無礼なもでした。

 その煬帝ですが、翌年には裴世清(はいせいせい)を使者として、倭国に派遣して友好関係を続けているのです。
この時期は、高句麗遠征の準備を進めている時で、高句麗、新羅、百済そして、倭国と東アジア諸国の緊張感が高まっており、隋としては高句麗を孤立させたいのです。
もし倭国との外交関係を断絶したならば、高句麗が倭国と同盟を結ぶかもしれず、そうなれば、外交的にも軍事的にも大きな問題になる為です。
個人的な怒りとは別に外交上は倭国を従属させている事に成ります。

 問題の国書を作成した人物は聖徳太子と云われていますが、文章の内容を意味する処を聖徳太子は知っていたのでしょうか。

統一国家の成立・続く・・・

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