2013/07/21

歴史のお話その165:分裂から統一へ④

<統一国家の成立・隋④>

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推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)

◎倭国の国書②

 聖徳太子の時代、多くの仏僧が朝鮮半島から倭国に渡来しました。
大和朝廷からみれば、先進地帯である朝鮮半島から積極的に仏僧を受け入れていたのでしょう。
 
 そのなかに聖徳太子が師と仰いだ仏僧慧慈(えじ)が居ります。
実はこの人物は、高句麗僧、高句麗から渡ってきているのです。
この慧慈が先の国書を書いたのではないかという説が存在しています。

 国書は「日の出づる処」と倭国の事を書いていますが、実際に日本列島に住んでいる私達にとって、日本は「日の出づる処」では在りません。
倭国を「日の出づる処」と考えるのは、更に西方から見る視点で在って、中国を「日没する処」とするのは同様に中国よりも東方からの視点です。
では国書を書いた人物の視点は、倭国と隋の中間に存在するのではないでしょうか?
その場所こそ、高句麗です。

 高句麗僧慧慈にとって、倭国と高句麗が軍事同盟を結ぶ事が望ましく、その為には倭国と隋の間に障害が発生する方が好ましい。
聖徳太子の信任を受けた慧慈は、その様な下心を持って国書を書いたのではないでしょうか?

 又、煬帝も倭国の無礼に対して怒り抱きましたが、倭国を高句麗側に追い込まない様に注意しています。
僅か数行の国書の文面から、倭国をも巻き込んだ当時の国際関係が読みとれ様な気がします。

 『隋書』には608年に倭国に趣いた使節の記録が存在しています。
この時に使節は倭国王と、その妃、王子に会ったと記録されているのですが、さて?
聖徳太子は王では無く、推古天皇は女性の天皇ですから、一体誰に会見したのでしょうか?
正式な隋の外交使節を倭国政府は、敢えて聖徳太子を王として謁見したのでしょうか?
又、この時に帰国した小野妹子は、隋の国書を途中で紛失した事に成っているのです。
遣隋使に関する疑問点は、改めて紹介します。

◎7世紀初頭の朝鮮半島

 高句麗は紀元前1世紀後半に鴨緑江の流域で成立した国家で、ツングース系扶余族の国家でした。
この国が飛躍的に領土を拡大したのが広開土王(在位391年~412年)の時代。 
この王の業績を記念して立てられた石碑が「広開土王碑」、この碑文には倭の記事も出てくるのですが、読み方に関して種々の説が存在し、碑文そのものの改竄(かいざん)説迄在る為、問題の多い石碑です。
5世紀初頭の東アジア諸民族の貴重な資料で、中華人民共和国吉林省集安に建っています。

 高句麗は隋の攻撃には耐え抜いたのですが、結局、次の唐によって滅ぼされました(668年)。
この時唐と共に高句麗を攻撃したのが新羅(しらぎ、しんら)で、4世紀後半に朝鮮半島の東南に成立した国家です。
高句麗と百済に圧迫されていた新羅は7世紀半ば、積極的に唐の文物を取り入れて国政改革を断行し、唐との結束を強めます。
最終的には唐と軍事同盟を結び、660年には百済、663年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一したのですが、唐は朝鮮半島の直接支配を目論んでおり、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い払うために676年迄戦い続ける事になります。

 百済は朝鮮半島西南、4世紀前半成立、この国家は高句麗、新羅と比べて大和朝廷との関係が非常に深く、唐、新羅連合軍によって滅ぼされた後、倭国の援助を受けて復活を目指します。
663年の白村江の戦いが有名ですが、倭国軍は敗走し百済再興は叶いませんでした。

※倭国について

 3世紀魏に邪馬台国が使者を派遣し、その後は倭国が5世紀南朝宋に使節を送っています。
中国の王朝に官職を授けてもらう事により、朝鮮半島や日本列島の対立勢力の中で有利な立場を確保しようと考えていた様です。
宋の歴史書には五人の倭王の名が記録されているので、これを「倭の五王」と彼の地では呼んでいますが、それ以後、隋の時代迄倭の記録は現れません。

 南朝の宋にだけ記録が残されているのは、宋は山東半島迄、領土を拡大している為、日本列島から百済を経由して比較的簡単に辿り着く事が可能でした。

 隋のときに倭国は遣隋使を送ります。
やがて、隋・唐の高句麗遠征、高句麗・百済・新羅の三国を巻き込む国際関係の中で新羅と同じように内政改革を行わざるを得ず、645年の大化改新として断行されました。
因みに日本の国号を正式に使用するのは、7世紀後半からなので、それ以前の時代は、倭国と呼ぶ方が正しいのです。

統一国家の成立・続く・・・

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コメント

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こんばんは。

日の出づる処、日本は策略にはまる危機だったかもしれませんね。
白村江の戦いが日本にどれほどの危機を招いたか、それは明日香の地域の歴史をみると分かります。

家康が知っていた倭国年号

安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ポルトガル人のロドリゲスが日本に布教に来て30年ほど滞在し、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して、日本語教科書を作りました、「日本大文典」という印刷書籍で、400年前の広辞苑といった大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。家康は、スペイン国王からメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。この本には、古代から伝えられてきた、日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝わった、倭国年号から大倭年号に続く年号が示されています。
日本大文典の内容は、ウィキなどにも倭国からの年号の存在は記載されていません。
ついでに 倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年「日本紀」は 「日本書紀」と読み替えることができるのか、について論証されています。
宜しくお願いします。