2013/07/22

歴史のお話その166:分裂から統一へ⑤

<統一国家の成立・隋番外>

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◎遣隋使は何回あったのか

 我国に於いては、推古天皇の御世、聖徳太子摂政の時、中国へ対等な国書を呈した事は、歴史を学んだ者なら皆知っています。
其の国書の文面が、「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙なきや、云々」と云うもので在った事も、良く知られています。
当時の中国は、隋の治世で、その皇帝は、第二代の煬帝で在り、日本からの国書を見て、「無礼なり」として怒ったと伝えられています。
以上の事は全て、隋の歴史を記した「隋書」に紹介され、国書の文面も隋書の伝える通りで在り、大業3年(607年)の事でした。

 一方、遣隋使の事は「日本書記」にも記録されていますが、書記には、小野妹子を隋に遣わした事を伝えるのみで、国書の文面に関して何も伝えていません。

 やがて翌年(608年)、隋からも答礼使が来朝し、小野妹子も一緒に帰国し、答礼使が隋に帰国の際、小野妹子は再び隋に遣いします。
この時も国書を持参しますが、その文面は、書記にのみ以下の様に記録されています。
「東の天皇、つつしみて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客、裴世清ら至りて、久しき憶、方に解けたり。季秋(9月)薄冷なり。尊はいかに。想ふに清悆ならん。これ、すなわち常のごとし。いま大礼蘇因高(小野妹子)、大礼乎那利(吉士雄成)らを遣はし、往かしむ。謹白不具」。

 之は、第二回国書として、有名で在り、天皇の称号を初めて用いた例としても、良く知られています。
歴史教科書にも先の「日出づる処・・・」の国書と供にこの書記の「東の天皇・・・」の国書を並べて掲げています。

 しかし、なぜ書記は、第一回の国書を掲げず、第二回の、文辞穏やかな国書のみを掲げたのでしょう?
この場合、日本書記の編纂が、時代を下った奈良時代に成されて事も、考慮しなければなりません。
編纂の際に文辞を改めた事も有り得る事で、書記に「東の天皇・・・」の称号が記されて在ったからと云って、聖徳太子の時代に「天皇」の称号が用いられた証拠には成りません。
 
 更に二つの国書を比べて読めば、その内容は、全く同じである事が判ります。
「日出づる処」は「東」で在り、「日没する処」は「西」の意味で、「つつがなきや」の個所を時節の挨拶にして、「謹白不具」で結び、他に加わっているのは、使人達の名前に過ぎません。

 文章として見た場合、書記の国書は、隋書の国書に比べて劣っていると思われ、国書の体裁も不自然で、書記の国書は、隋書の国書を書き改めた物に過ぎないと推定されます。
日本書記の編纂時、既に隋書は存在しており、参考にされたと考えられます。
更に問題の国書を、なぜ第二回の使節(608年)の時に掲げたのか、如何なる理由で、穏やかな文面に書き改めたのかも判っていません。

 他にも、遣隋使には、疑問点が多く、書記によれば、遣隋使の派遣は三回、607年、608年、614年で在り、前の二回が小野妹子、最後の一回が、犬上御田鍬(のちの第一回遣唐使)でした。
一方、隋書によれば、日本からの遣隋使は、三回入朝していますが、その年代は、600年、607年、610年で「この後、終に絶つ」と記されています。
書記と隋書で一致するのは、607年の回のみで、600年の遣隋使について、隋書には、皇帝(初代文帝)と使者の問答迄、詳しく伝えているにも関わらず、書記には、如何なる記述も存在せず、607年のものが、第一回の遣隋使とされているのは何故でしょうか?

 国書を持参した遣隋使が、第二回である点は、隋書も書記も一致しています。
但し、書記で608年に送った使者が、隋書では、第三回の使節として、610年の正月に入朝している事、更に書記では、もう一回、614年に使節が隋に赴いているが、隋書では「終に絶つ」として、日本からの使節入朝を伝えていません。

 単純な数の符合で考えられていた遣隋使の問題も、国書の問題も双方の記録文書を符合させると、不思議な一面が現れてくるのです。
聖徳太子の時代に行われた遣隋使は、実際何回在ったのでしょう?

統一国家の成立・終わり

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