2013/07/24

歴史のお話その168:栄華の時代②

<唐その②>

則天武后

◎則天武后

 太宗李世民は政治的には成功をおさめるのですが、継承者問題は難航しました。
長男が皇太子なのですが、この人物は突厥、トルコ人の遊牧文化に郷愁と憧れを持ち、宮殿の庭に幕舎を張って生活し、食事の時は羊の肉を剣に刺し、火であぶって食べることを好みました。
従臣には弁髪を強要し、彼等とトルコ語で会話をします。

 何故、皇太子が遊牧文化に郷愁と憧れを持ったのか不明ですが、本来唐の皇室李家も鮮卑族等、北方民族の血が濃く、李世民の皇后も長孫氏と云う北魏以来の鮮卑族の名門でしたから、風俗として遊牧民に近いものがあったのでしょう。
皇太子の振る舞いは先祖返りかもしれません。

 但し、皇帝としては困った問題で、言動も乱暴な処が常々在るのです。
そこで、李世民は長男を皇太子からはずして、長孫皇后が授かった子供達の中で一番大人しい三男を皇太子にしました。
この人物が第三代皇帝高宗(在位649年~683年)。

 高宗は優柔不断なところのある頼りない皇帝でしたが、太宗李世民の国家基盤が強固なものだしたから、彼の時代になっても唐の支配領域は拡大しつづけ、高句麗を滅ぼすのもこの時代でした。

高宗は彼自身よりも皇后が有名です。
則天武后(そくてんぶこう)がその人で、本来彼女は李世民の後宮に入っていたのですが、息子の高宗に見初められ、親父が無き後、彼女を自分の後宮に入れました。

 これは、やはり遊牧民的な行動です。
息子が父親の妻を自分のものにすることは儒教文化ではありえませんが、遊牧民では普通にあることなのです。

 則天武后は高宗の愛を独占して皇后の地位に登りつめます。
彼女は頭が大変良く、高宗は決断力の無い人物なので、政治向きの相談を彼女に行い、則天武后は
実に的確な指示を行うのです。
やがて、高宗は彼女無しでは政務が出来なくなりました。

 朝廷で役人に会う時に自分の後ろに簾をたらしておいて、その裏側に則天武后を座らせ、高宗が判断に迷うと則天武后が簾の後ろからそっと耳打ちをしました。

 高宗が崩御すると則天武后が実権を握りました。
彼女と高宗とのあいだに二人の息子がいます。
まず中宗が即位しますが、彼の政治は則天武后の意に沿わず、中宗を退位させて、もう一人の息子、睿(えい)宗を即位させます。
則天武后はこの睿宗も中宗と同じ運命を辿り、終には自分で即位しました(在位695年~705年)。齢63歳位の時です。

 こうして、中国史上唯一の女性皇帝が誕生しました。
武照(ぶしょう)が彼女の本名で、皇帝家が李家から武家へ変わったので国号も周と変更しました。
則天武后という呼び名も、高宗の皇后としての呼び方であって皇帝としての名前ではないのです。
女性だから皇帝名で呼ばない伝統的な女性蔑視を引きずり、武則天(ぶそくてん)と呼ばれました。

 則天武后が政治の実権を掌握するにつれて、北周、隋、唐と続いてきた支配者集団は当然非協力的です。
則天武后は鮮卑系の武人集団でも南朝以来の伝統的貴族階級出身でも無く、個人的な美貌と才覚だけで登り詰めた人物です。

栄華の時代:続く・・・

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント