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2013/07/25

歴史のお話その169:栄華の時代③

<唐その③>

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◎傾国の美姫

 皇帝と成った則天武后としては、自分の手足となって動いてくれる忠実な官僚が欲しい。
そこで彼女は中央だけで実施していた官僚登用試験を全国に広げます。
試験で採用された官僚達には、門閥がありませんから、則天武后に忠節を尽くすことで出世するしか無く、旧来からの家臣の様に指示命令に従わないことは在りません。

 則天武后の時代に新官僚層が政界に進出して、南北朝以来の旧勢力と対抗する力をつけてきます。言い換えれば貴族ではない官僚層が、政権中枢部に登場して来たことを意味します。
則天武后は皇帝ですから実力行使も行い、この時代に暗殺、若しくは自殺に追い込まれた貴族とその家族は千人は下りません。

 則天武后は最晩年には、息子の中宗が再び即位して国号も唐に戻されました。
やがて、則天武后は崩御しますが、中宗の皇后が又問題のある人物でした。
則天武后の政治運営を目の当たりにした皇后の韋后(いこう)は、自分も則天武后の様に考えるのは当然です。
則天武后は夫の高宗が崩御して皇帝になったのですが、韋后は中宗がそうなる時間を待つことができず、とうとう娘と共謀して中宗を毒殺してしまいます。
この行動は余りにも酷過ぎ、中宗の甥で睿宗の息子の李隆基(りりゅうき)が兵士をひきいて宮中に乗り込み、韋后らの一派を排除しました。

 則天武后から韋后までの政変を「武韋の禍(ぶいのか)」と呼びますが、これはあくまで唐の宮廷内での事件で一般民衆の生活とはあまり関係はない話です。

 唐の宮廷を正常化した李隆基は後に、第六代皇帝に就き、彼が唐の中期の繁栄をもたらした玄宗(在位712年~756年)です。
即位した年齢は28歳、能力もそして活力も在り、次々と政策を打ち出しました。
そして、彼を補佐した有能な大臣達は全員、則天武后の時代に頭角を表して来た人たちなので、玄宗の成功はある意味では、彼女のお蔭かも知れません。

 玄宗時代の繁栄を「開元の治(かいげんのち)」と呼びならわし、太宗の「貞観の治」と同様、唐帝国が繁栄した栄光の時代でした。

皇帝の政務は、実際激務でした。
宮廷での政務は早朝、それも夜明け前に始まりますから、皇帝は午前三時頃にはもう起きて、威儀を正して宮廷にお出ましです。
そして、次から次へと官僚たちが持ってくる書類を決裁していくのです。

 正午になる頃にようやく仕事も一区切り、以降が自由時間なのですが、この様な日常の仕事を規則正しく遣り繰りすることは大変な労力で、皇帝は一番偉いのですから手抜きも可能です。
しかし、此れを行い始めると、宦官や外戚等の実力者が勝手な振る舞いをする様に成ってしまいます。

 玄宗は規則正しく政務に没頭するのですが、長寿を保ちました。
皇帝に定年制度は等無く、崩御する時が政務から開放される時なのです。
即位30年を越え、年齢が60歳近くに成ると、流石の玄宗も政治に対する熱意を失ってきます。

 この様な晩年に、彼が出会った女性が楊貴妃でした。
楊貴妃は本来、玄宗の息子の妃の一人だったのですが、馴れ初めははっきりとしませんが、玄宗は彼女を見初めて、息子の後宮からもらい受け、自分の後宮に入れてしまいました。

 楊貴妃は如何なる気持だったのでしょう?
将来皇帝の位に就けるか否か、余談を許さない皇子の後宮に埋もれているよりも、現皇帝の寵愛を受ける方が幸せでしょう。
多分、そして、彼女はこの好機を逃すこと無く、玄宗の愛を独占するのに成功しました。
玄宗と傾国の美姫、楊貴妃の世紀の愛の始まりです。

 ロマンチックに語られることの多い二人の恋愛ですが、出会ったときの玄宗の年齢が61歳、楊貴妃は27歳です。

 以来、玄宗は夜が明けても宮廷に登城する事無く、正午近く迄、楊貴妃の寝室で戯れる、日々がつづくようになりました。

 玄宗の政治は当然公正さを失い、出世を望む者は、楊貴妃に取り入れば良い、その様な風潮が宮中に蔓延し、政府の中核が腐敗してきます。
ついに玄宗の晩年に唐帝国を大きく揺るがす大反乱が勃発するのですが、それは次回に。

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在天願作比翼鳥、
在地願爲連理枝  
     天にあっては願わくは比翼の鳥となり
     地にあっては願わくは連理の枝となろう。
天長地久有時盡、
此恨綿綿無絕期
     天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。
     しかし、この悲しみは綿々と続いて絶える時はないだろう。

長恨歌(抜粋) 白楽天

栄華の時代:続く・・・
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