歴史のお話その171:栄華の時代⑤
<唐その⑤>

◎安史の乱
当時、唐中央政府には、楊貴妃の縁で玄宗に気に入られて出世した人物が居たのです。
名前は楊国忠、名前からもこの人物は楊貴妃の「縁石関係」で、こちらもどんどん出世して、宰相になります。
処が安禄山は、この楊国忠と大変仲が悪く、実際二人とも実力ではなく裏工作で、現在の地位を手中に収めている訳ですから、玄宗に嫌われたらその瞬間に高い地位から転落する運命に在り、更には玄宗と楊貴妃の愛を奪い合う関係ですから、ライバルになるのは当然です。
楊国忠は宰相として常に皇帝の傍に居ますが、安禄山は何時も玄宗や楊貴妃の傍に居て御機嫌伺いをしている訳には行きません。
赴任する統治場所は辺境ですから、節度使の仕事も実行しなければ成りません。
都を離れると安禄山は自分に評価が気に成り、自分が不在の間に楊国忠が讒言をして自分を失脚させるのではないか、と心配なのです。
処がやがて安禄山は在る事に気づきます。
「自分は三つの節度使を兼任し、唐帝国全兵力の三分の一を掌握している。玄宗の機嫌恐れる必要など全くない。この兵力をもってすれば自分自身が皇帝になることだってできる、」と。
挙兵の理由は単純なのですが、此れこそ玄宗皇帝の情実に流された人材登用の結果が、一気に爆発したと思われます。
そもそも節度使は辺境防衛の為におかれた軍団で在って、国防軍の正確を持つ軍団から国を守る別の軍が存在する筈も無く、反乱軍は当に快進撃を続けます。
率いる軍勢は15万、瞬く間に洛陽を占領、翌年には長安をも占領しました。
玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れ、四川省に向けて落ち延びるのですが、逃避行の途中で彼等を護衛する親衛隊が反抗します。
安禄山の反乱は楊貴妃に主たる原因が在り、この女に皇帝が溺れて政務を蔑ろにした結果が、この乱であるから、この女を殺せ、と近衛兵達は玄宗に迫ったのでした。
兵士の協力がなければ、逃げのびるどころか自分も命も判らない状況で、玄宗は片田舎の寺社に楊貴妃を連れ行き、因果を含めて絞め殺させるのです。
愛は山より高く海よりも深いのですが、もうどうすることも出来ず、泣く泣く命を絶つ、ここが、玄宗と楊貴妃、世紀の恋愛の終点でした。
この後、玄宗は反乱勃発の責任を取り退位し、息子の肅宗(しゅくそう)が即位しました。
唐政府は安史の乱を鎮圧する為、ウイグル族に援助を要請しました。
ウイグル族は突厥が衰退した後、勢力を伸ばしてきた遊牧民族ですが、既に国内には安史の乱を鎮圧できる軍事力が存在しない結果でした。
さて安禄山ですが、長安を占領して新政府を樹立し、皇帝に即位する迄は順調でした。
処がその直後に失明します。
体型的に多分糖尿病の結果と推定され、更に全身皮膚病をも患いました。
挙兵理由に、確固たる理想や理念が存在した反乱ではありませんから、皇帝に即位しても政治運営は不可能です。
そこへ失明と皮膚病で精神的に病んでしまったのか、暴虐な人間に成り、最後は息子に殺されてしまいます。
更にその息子は武将の一人史思明に暗殺されて、以後は史思明が反乱軍の中心人物になりますが、彼も武闘派が取り柄で、これもその息子に殺されます。
その史思明の息子は、反乱軍をとりまとめるだけの力量等全く無く、中心を失った反乱軍はウイグル軍に鎮圧されて、ようやく反乱は終わりました(763年)。
9年間にも及んだ戦乱で、華北は完全に荒廃してしまいました。
安史の乱の兵士達には遊牧民出身の者も多かった為、農民に対する理解や配慮は無く、農地は荒廃の極みと成り、農民は畑を棄てて逃げ散り、食糧生産も満足におこなわれません。
反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってきますが、都はすっかり変わり果てていたのです。
杜甫(とほ)「春望(しゅんぼう)」
国破れて 山河あり
城春にして 草木深し
時に感じては 花にも涙をそそぎ
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
烽火 三月に連なり
家書 万金に抵(あた)る
白頭 掻(か)けば更に短く
渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
杜甫は安史の乱で一時長安に幽閉されます。
戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩で、「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだ、と嘆いています。
戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。
白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。
その様な意味の詩です。
栄華の時代:続く・・・

◎安史の乱
当時、唐中央政府には、楊貴妃の縁で玄宗に気に入られて出世した人物が居たのです。
名前は楊国忠、名前からもこの人物は楊貴妃の「縁石関係」で、こちらもどんどん出世して、宰相になります。
処が安禄山は、この楊国忠と大変仲が悪く、実際二人とも実力ではなく裏工作で、現在の地位を手中に収めている訳ですから、玄宗に嫌われたらその瞬間に高い地位から転落する運命に在り、更には玄宗と楊貴妃の愛を奪い合う関係ですから、ライバルになるのは当然です。
楊国忠は宰相として常に皇帝の傍に居ますが、安禄山は何時も玄宗や楊貴妃の傍に居て御機嫌伺いをしている訳には行きません。
赴任する統治場所は辺境ですから、節度使の仕事も実行しなければ成りません。
都を離れると安禄山は自分に評価が気に成り、自分が不在の間に楊国忠が讒言をして自分を失脚させるのではないか、と心配なのです。
処がやがて安禄山は在る事に気づきます。
「自分は三つの節度使を兼任し、唐帝国全兵力の三分の一を掌握している。玄宗の機嫌恐れる必要など全くない。この兵力をもってすれば自分自身が皇帝になることだってできる、」と。
挙兵の理由は単純なのですが、此れこそ玄宗皇帝の情実に流された人材登用の結果が、一気に爆発したと思われます。
そもそも節度使は辺境防衛の為におかれた軍団で在って、国防軍の正確を持つ軍団から国を守る別の軍が存在する筈も無く、反乱軍は当に快進撃を続けます。
率いる軍勢は15万、瞬く間に洛陽を占領、翌年には長安をも占領しました。
玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れ、四川省に向けて落ち延びるのですが、逃避行の途中で彼等を護衛する親衛隊が反抗します。
安禄山の反乱は楊貴妃に主たる原因が在り、この女に皇帝が溺れて政務を蔑ろにした結果が、この乱であるから、この女を殺せ、と近衛兵達は玄宗に迫ったのでした。
兵士の協力がなければ、逃げのびるどころか自分も命も判らない状況で、玄宗は片田舎の寺社に楊貴妃を連れ行き、因果を含めて絞め殺させるのです。
愛は山より高く海よりも深いのですが、もうどうすることも出来ず、泣く泣く命を絶つ、ここが、玄宗と楊貴妃、世紀の恋愛の終点でした。
この後、玄宗は反乱勃発の責任を取り退位し、息子の肅宗(しゅくそう)が即位しました。
唐政府は安史の乱を鎮圧する為、ウイグル族に援助を要請しました。
ウイグル族は突厥が衰退した後、勢力を伸ばしてきた遊牧民族ですが、既に国内には安史の乱を鎮圧できる軍事力が存在しない結果でした。
さて安禄山ですが、長安を占領して新政府を樹立し、皇帝に即位する迄は順調でした。
処がその直後に失明します。
体型的に多分糖尿病の結果と推定され、更に全身皮膚病をも患いました。
挙兵理由に、確固たる理想や理念が存在した反乱ではありませんから、皇帝に即位しても政治運営は不可能です。
そこへ失明と皮膚病で精神的に病んでしまったのか、暴虐な人間に成り、最後は息子に殺されてしまいます。
更にその息子は武将の一人史思明に暗殺されて、以後は史思明が反乱軍の中心人物になりますが、彼も武闘派が取り柄で、これもその息子に殺されます。
その史思明の息子は、反乱軍をとりまとめるだけの力量等全く無く、中心を失った反乱軍はウイグル軍に鎮圧されて、ようやく反乱は終わりました(763年)。
9年間にも及んだ戦乱で、華北は完全に荒廃してしまいました。
安史の乱の兵士達には遊牧民出身の者も多かった為、農民に対する理解や配慮は無く、農地は荒廃の極みと成り、農民は畑を棄てて逃げ散り、食糧生産も満足におこなわれません。
反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってきますが、都はすっかり変わり果てていたのです。
杜甫(とほ)「春望(しゅんぼう)」
国破れて 山河あり
城春にして 草木深し
時に感じては 花にも涙をそそぎ
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
烽火 三月に連なり
家書 万金に抵(あた)る
白頭 掻(か)けば更に短く
渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
杜甫は安史の乱で一時長安に幽閉されます。
戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩で、「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだ、と嘆いています。
戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。
白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。
その様な意味の詩です。
栄華の時代:続く・・・
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