2013/07/29

歴史のお話その172:栄華の時代⑥

<唐その⑥>

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◎唐の変質

 安史の乱後、唐の政治も社会も大きく変化します。

 唐王朝の力が弱体化し、均田制を維持することがもはや不可能に成りました。
均田農民は政府の援助が得られずに没落して、小作農と成りますが、小作農のことを佃戸(でんこ)と呼びます。
佃戸が働く、農地の所有者が新興地主階級ですが、彼等は貴族とは何の脈略も無く、混乱に乗じて成長してきた新興層です。

 均田制が崩れれば、当然それをもとにしていた租庸調制も崩れます。
変わって実施された税制が両税法、夏と秋の二回の収穫期に銭納で税を集め、一年二回の徴税なので両税法と呼びます。
両税法の献策者が楊炎(ようえん)です。 
更には、塩の専売制を強化して国家財政を補いました。

 府兵制が解体して、募兵制に切り替わり、傭兵部隊と成りました。
傭兵は西洋でも東洋でも質が悪く、中国では「良い鉄は釘にはならない、善い人は兵隊にはならない」との諺が在り、兵士になる奴にまともな奴は居らず、真面目に働くことの出来ない遊人が最後に辿り着く仕事だと考えられていたのです。

 府兵制時代の兵士は違いました。
徴兵によって均田農民が兵士に成っていますから、農民は元来まじめで黙々といわれたとおりによく働きます。
府兵は質が高く、募兵制の傭兵になってから兵士の質が格段に落ち、略奪・暴行等治安の悪化を助長しました。

 そして、この募兵を率いるのが節度使なのです。
唐王朝は安史の乱後、国内にも節度使を設置しますが、その理由は節度使が反乱したら別の節度使に鎮圧させるためです。
 
国内に多数設置された節度使に任命されたのが、安史の乱で暴れまわった反乱軍側の武将達でした。反乱鎮圧後、唐王朝は反乱軍の将兵の扱いに困り、政府の監視下に置かなければ、また何を起こすかわかりません。
そこで、官職を与えて各地の節度使やその武将、兵士にした訳なのです。

 この様な節度使ですから、最初から唐王朝を軽んじ、直ぐに各地で自立化して行き、唐王朝の命令を無視し、納税された税金も中央に還元される事は在りませんでした。

 ただし、安史の乱で戦乱に巻き込まれなかった江南地方は比較的唐の政府に対して従順で税金を送って来ました。
その経路が大運河で、唐王朝にとって大運河と江南地方が生命線に成り、やがてここが唐王朝の支配下から外れる時が、唐の滅亡の時となります。

栄華の時代:続く・・・



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