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2013/07/31

歴史のお話その174:栄華の時代番外編①

<唐番外編その①>

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◎皇女と則天武后

 中華人民共和国の古都、西安から北西に80km程はなれた場所に、17基の墳丘群が、周囲の平野から目立っています。
此れは、唐代の広大な王墓で、1300年程の昔、此処に1人の若い皇女が埋葬されました。
その名を、永遠の平和の意味である永泰公主と云い、中国歴代王朝の中でも、黄金時代といわれる唐代(西暦618年~907年)に生きた女性です。

 彼女の生と死の物語は、1000年以上を隔てた現在さえ、痛ましいものでした。

 西暦700年、16歳の永泰公主は、唐の宮廷の高い身分の貴族で、風采も堂々たる武官と結婚しました。
結婚後直ぐに懐妊にし、華やかな世界で、彼女の将来を約束されているかの様にみえました。

 しかし、其処は又、永泰公主の祖母、則天武后に支配された世界でもあり、彼女は、前皇后を殺害し、ライバルと成りそうな者達への警告として、その手足を切断して酒に漬ける様な残虐な行為を示して、唐王朝の最高権力者に台頭した人物でした。
彼女が、全宮廷に不信を抱き、あらゆる人々の間に、陰謀の陰を見たとしても、故の無い事ではなかったでしょう。

 西暦701年の或る日の事、宮中に広く放たれた密偵の1人は、若い永泰公主が、夫や兄弟と一緒に、宮廷生活のとある一面を、笑っている事を聞いてしまいました。
密偵は、直ちにその事実を則天武后に知らせ、彼女は、その事実の中に陰謀の芽を見とり、直ちに若い3人に死の命令が下ったのは言うまでもありません。

 則天武后のこの命令は、厳しい仕来りに裏付けされたもので、若い3人は共に、自分達の成すべき事を知っており、西暦701年10月8日、自害したと云われています。

 皇女とその物語は、人々の記憶から殆んど消えかけていましたが、1960年、中国当局は、西安近郊の唐代墳墓の一つを発掘調査する決定を下しましたが、当時、夫々の陵墓の埋葬者に関して、唐王室の誰かと云う以外、何も知られていなかったのです。
全くの偶然から、一つの陵墓が選定され、この選択によって長く忘れられていた皇女が、再度歴史の舞台に登場する事に成りました。

 考古学者が、何処に入室坑口が在るのか調査の為、墳墓の周囲で最初の土質調査を実施した時、別の竪穴が、墳墓の基部の直ぐ脇に、垂直に貫通している事が確認されました。
明らかに、盗掘者が墓室に侵入する為に掘った穴でした。

 盗掘者の1人は、未だその場所に居ました。
考古学者達は、15m下の地下通路を埋めている土砂の上に、彼の骨が横たわっているのを見つけたのです。
頭蓋骨は、近くに転がっていた鉄斧で、木端微塵に叩き潰され、分け前の金、玉、銀等の宝物が骨の回りに散乱していました。

 墓所は、隅々迄荒され、盗賊の侵入は、埋葬後20年以内の事だったと推定されます。
巨大な石棺は金梃で傷つけられ、その重い天蓋は割れて、中身は全て盗まれていました。
残っていたのは、死者の骨だけでしたが、盗掘者は、墓室への通路に並んでいる、碧がんには手をつけていませんでした。
壁がんには、唐代の陶磁器が多量に並んでいるのですが、この品々は盗掘者にとって、無価値の物でしたが、現在では計り知れない程の価値が在る物なのです。
又、唐の宮廷生活を描いた、目を瞠る程の壁画もそのまま発見されました。
当時、中国の研究者の間では、この墳墓に埋葬された人物が如何なる身分の者なのか、確認されていませんでしたが、やがて、通路に置かれた大きな石版が出土し、この石版には、永泰公主の碑銘が彫られていたのでした。

 西暦705年に、則天武后が退位させられた後、彼女の実子で、正統の皇帝であり、永泰公主の父親でもある中宗が、王位を継承しました。
其の後間もなく、則天武后が崩御し、その実子である中宗は、未だ自分の子供達と義理の息子の非業の死を嘆いていたので、その遺骸を最初に埋葬された、貧しい墓から掘り出し、唐皇族の陵(みささぎ)に皇族として埋葬する様に命じたのでした。

 更に父親である中宗は、史書を書き改め様と試みました。
唐の史書は全て、永泰公主の名前とその不当な死を書き残していましたから、彼女の父親によって墳墓に置かれた碑文には、ただ偉大な唐王朝の故永泰公主は、出産の為に死亡したとだけ記録されました。
恐らく、忌まわしい過去の記憶を永遠に人々の記憶から、抹消してしまおうと考えたたのでしょう。

栄華の時代:続く・・・
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