歴史のお話その175:栄華の時代番外編②
<唐番外編その②>

◎唐に献上された日本の舞姫
「長安の酒場に行けば、青い眼をした女性が居た。白い顔を花の様にほころばせて、歌っていた。金髪をなびかせながら、踊っていた」。
今から1200年程前、我国では奈良時代のお話です。
唐の都、長安は、当時世界最大の国際都市で、大唐帝国の威勢をしたって、又高い文化に憧れて、四方の国々から、さまざまな人種の人々が、長安に集まっていました。
日本からも、遣唐使が赴き、留学生が行き、中にはそのまま長安に住居を構え、唐の役人に成る者も現れました。
遣唐使の藤原清河、留学生の阿倍仲麻呂が良く知られています。
阿倍仲麻呂は、詩人李白とも親交が深かったので、先に述べた酒場で、異国の女性が注ぐ、葡萄の酒を味わった事でしょう。
藤原清河、阿倍仲麻呂は、供に長安で他界します。
さて、唐の年号で大歴13年(778年)、日本の年号では、宝亀9年、日本からの遣唐使が26年ぶりに長安に赴きました。
一行は、正月に入京し、4月末迄長安に滞在し、帰国に際しては、在唐の留学生の他、清河と唐の婦人の間に生れた娘(喜娘)を伴います。
帰路の航海は、逆風に合い、多くの者が海に消えたものの、喜娘は、何とか父の故国の土を踏む事ができました。
処が、この時長安の宮廷には、別に11人もの日本女性が、再び祖国を見る当ても無く、辛い日々を送っていました。
この薄幸の女性達に関して、日本側の記録には、何も伝えていません。
この女性達は「日本国の舞姫」で在り、777年の正月、渤海から貢物として、唐の朝廷に献上された者達で在りました。
唐の役人も、特に珍しい事と思ったのか、特に記録に留めていますが、なぜ「日本国の舞姫」が渤海からの献上品に成ったのでしょうか?
渤海は、現在の中国東北部から朝鮮半島にかけて、勢力を伸ばした大国で、7世紀末に建国し、唐に通じた他、日本にも使節を送っていました。
渤海の使節は、日本に対しても、うやうやしく臣下としての礼をとり、貢物を捧げ、天皇の徳を慕って来朝したと称しました。
よって、奈良の朝廷は、使節の接待に国費を傾けたのでした。
渤海からの貢物は何かと云えば、その領内に産する動物の毛皮が、主な物で、虎、ヒグマ、テンの皮、人参、蜂蜜が中心で、之に対して、朝廷は豪華な絹製品を大量に与えました。
実は、渤海が度々日本に使節を送る目的も、この恩寵の品が大きな目的であったと思われます。
では渤海が「舞姫」を、どの様にして手にしたのかについては、流石に当時の記録にも「舞姫」迄与えたとは記録されていませんが、唐に献上している以上、日本から連れ帰ったに違いないのです・
渤海の使節が、来朝すると、連日の様に宴席が持たれ、朝廷からは、女樂を賜りとの記録も在り、宮中で召抱えている舞姫達を、宴席に侍らせたのでしょう。
唐に献上された「舞姫」とは、この事であると思われ、献上の年にもっとも近い、渤海の入朝は宝亀2年(771年)に7回目の使節が入京した事が、朝廷の記録に残されています。
何人の「舞姫」が異郷の地に伴われたのか、渤海の都での境遇等は、今と成っては知る事も不可能ですが、少なくとも11人は、日本の女性として満州の広野に足跡を印し、この地で5年余りを送った後、長安に貢物として送られたのでしょう。
その翌年の遣唐使一行が、かつての同朋が長安に居る事を知っていたのか、朝廷がその事実を知っていたのかは解かりません。
11人の「舞姫」は一度、長安に現れ、おそらく宮廷の奥深く、永遠に姿を消したのでした。
その後も、渤海と日本の国交は続き、朝廷の歓待したのは言う迄もありません。
聖武天皇の御世、神亀4年(727年)に初めて来朝し、醍醐天皇の御世、延長4年(926年)に渤海の国が滅亡する迄、その使節の来朝は、実に35回。
奈良時代から平安時代を通じて、常に渤海は忠誠な国で在り、その外交は巧みで在りました。
栄華の時代:続く・・・

◎唐に献上された日本の舞姫
「長安の酒場に行けば、青い眼をした女性が居た。白い顔を花の様にほころばせて、歌っていた。金髪をなびかせながら、踊っていた」。
今から1200年程前、我国では奈良時代のお話です。
唐の都、長安は、当時世界最大の国際都市で、大唐帝国の威勢をしたって、又高い文化に憧れて、四方の国々から、さまざまな人種の人々が、長安に集まっていました。
日本からも、遣唐使が赴き、留学生が行き、中にはそのまま長安に住居を構え、唐の役人に成る者も現れました。
遣唐使の藤原清河、留学生の阿倍仲麻呂が良く知られています。
阿倍仲麻呂は、詩人李白とも親交が深かったので、先に述べた酒場で、異国の女性が注ぐ、葡萄の酒を味わった事でしょう。
藤原清河、阿倍仲麻呂は、供に長安で他界します。
さて、唐の年号で大歴13年(778年)、日本の年号では、宝亀9年、日本からの遣唐使が26年ぶりに長安に赴きました。
一行は、正月に入京し、4月末迄長安に滞在し、帰国に際しては、在唐の留学生の他、清河と唐の婦人の間に生れた娘(喜娘)を伴います。
帰路の航海は、逆風に合い、多くの者が海に消えたものの、喜娘は、何とか父の故国の土を踏む事ができました。
処が、この時長安の宮廷には、別に11人もの日本女性が、再び祖国を見る当ても無く、辛い日々を送っていました。
この薄幸の女性達に関して、日本側の記録には、何も伝えていません。
この女性達は「日本国の舞姫」で在り、777年の正月、渤海から貢物として、唐の朝廷に献上された者達で在りました。
唐の役人も、特に珍しい事と思ったのか、特に記録に留めていますが、なぜ「日本国の舞姫」が渤海からの献上品に成ったのでしょうか?
渤海は、現在の中国東北部から朝鮮半島にかけて、勢力を伸ばした大国で、7世紀末に建国し、唐に通じた他、日本にも使節を送っていました。
渤海の使節は、日本に対しても、うやうやしく臣下としての礼をとり、貢物を捧げ、天皇の徳を慕って来朝したと称しました。
よって、奈良の朝廷は、使節の接待に国費を傾けたのでした。
渤海からの貢物は何かと云えば、その領内に産する動物の毛皮が、主な物で、虎、ヒグマ、テンの皮、人参、蜂蜜が中心で、之に対して、朝廷は豪華な絹製品を大量に与えました。
実は、渤海が度々日本に使節を送る目的も、この恩寵の品が大きな目的であったと思われます。
では渤海が「舞姫」を、どの様にして手にしたのかについては、流石に当時の記録にも「舞姫」迄与えたとは記録されていませんが、唐に献上している以上、日本から連れ帰ったに違いないのです・
渤海の使節が、来朝すると、連日の様に宴席が持たれ、朝廷からは、女樂を賜りとの記録も在り、宮中で召抱えている舞姫達を、宴席に侍らせたのでしょう。
唐に献上された「舞姫」とは、この事であると思われ、献上の年にもっとも近い、渤海の入朝は宝亀2年(771年)に7回目の使節が入京した事が、朝廷の記録に残されています。
何人の「舞姫」が異郷の地に伴われたのか、渤海の都での境遇等は、今と成っては知る事も不可能ですが、少なくとも11人は、日本の女性として満州の広野に足跡を印し、この地で5年余りを送った後、長安に貢物として送られたのでしょう。
その翌年の遣唐使一行が、かつての同朋が長安に居る事を知っていたのか、朝廷がその事実を知っていたのかは解かりません。
11人の「舞姫」は一度、長安に現れ、おそらく宮廷の奥深く、永遠に姿を消したのでした。
その後も、渤海と日本の国交は続き、朝廷の歓待したのは言う迄もありません。
聖武天皇の御世、神亀4年(727年)に初めて来朝し、醍醐天皇の御世、延長4年(926年)に渤海の国が滅亡する迄、その使節の来朝は、実に35回。
奈良時代から平安時代を通じて、常に渤海は忠誠な国で在り、その外交は巧みで在りました。
栄華の時代:続く・・・
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