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2013/08/04

歴史のお話その176:栄華の時代・文化その①

<唐の文化その①>

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◎唐の国際性

 唐は国際性の豊かな時代でした。
前回の番外編で「長安の酒場に行けば、青い眼をした女性が居た。・・・・・・」の言葉を紹介しましたが、改めて唐の国際性について書いてみたいと思います。

 唐の前半は羈縻政策が功を奏して、非常に広い地域が唐の勢力下に入ります。
その広大な領域内だけでも数多の民族が居住し、貿易、留学等様々な目的で世界中から多くの民族が入唐した結果、都長安は国際色豊かな都市と成り、現在に例えれば其れは、主要先進国の首都を連想すれば良いと思います。
人口も100万人を超えており、当時多分バグダードと並んで当時世界最大規模の都市です。

李白「少年行」

五陵の年少、金市の東
銀鞍白馬、春風を渡(わた)る
落花(らっか)踏み尽くして、何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ
笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中

盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
(白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけており、見るからに金持ちの貴公子です)
花びらを踏み散らしながらどこへ行くのか
(と李白が見ていたら)
胡姫酒肆の中へ入って行きました。
 (酒肆は酒場)
 
 胡姫の意味
胡の字は本来、異民族の意味で使われていましたが、唐の時代に成るとイラン人を示す言葉になります。
胡姫はイラン人の若い女性、胡姫酒肆は、若いイラン娘が踊り、がお酌をしてくれる酒場なのです。

 李白はこの様な長安の華やかな雰囲気をつたえる詩を沢山創りました。
商人以外にも様々な仕事で、唐に出稼ぎに来ていた西方出身の人が数多く居た結果であると思います。

 外交使節も長安にやってきます。
日本からは遣唐使、留学生、留学僧も数多く居り、当時の日本は新興国家なので、唐に学ぼうと必死です。

 遣唐使の様な使節を送る国は無数に存在し、唐の観点からすれば、これらは皆朝貢(ちょうこう)で、中国の皇帝を慕って諸国が貢ぎ物を持ってくる、と解釈をします。
対等な外交関係ではありませんが、朝貢した国は帰りに数多の返礼品を持ち帰ります。
貿易の面から見れば、朝貢国は大変な恩恵を受けていたのです。

 アラビア方面からはインド洋経由でイスラム商人達が往来します。
唐は広州に貿易業務を管理する役所、市舶司設け商業税を徴収しました。

 此処でイスラム勢力との関係では重要な戦いが発生します。
 タラス河畔の戦い(751年)。

 現在のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス三国の境付近で唐とイスラム・アッバース朝が東西交易路での勢力争い結果、戦火を交えます。
この戦いで唐は敗走し、死者5万人、捕虜2万人と伝えられていますが、この捕虜の中に紙梳(す)き職人を本業とする人物が混じっていました。
その結果、製紙法がイスラム世界に伝わり、やがてはヨーロッパまで広く伝授されて行きます。
タラス河畔の戦いは、文化史上非常に重要な戦いでした。

 因みにこの時に唐軍の司令官が、高仙芝(こうせんし)で、この人物は高句麗人です。
朝鮮半島出身の人物が、唐の軍人として中央アジアで、アラブ人のイスラム勢力と戦っている大変、スケールの大きな時代のお話です。

 高仙芝はこの後、長安に帰還し安史の乱で、反乱軍と戦っています。

唐の文化:続く・・・


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