2013/08/11

歴史のお話その182:統一国家の成立③

<五代から宋へ③>

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科挙試験場風景

◎宋の政策

 趙匡胤は宋の太祖に成ります。
彼の時に、ほぼ中国を統一しますが、完全に統一したのは二代目皇帝(979年)、趙匡胤の弟、趙匤義(ちょうぎょうぎ)(在位976年~997年)、こちらは宋の太宗と呼ばれる方が多い様です。

 この兄弟が宋の基礎を固めました。
宋の政治方針は、「文治主義」、この「文」の反対語は、この場合は「武」にあたります。
文治は武力ではなく「文の力」で治めることを意味しているのです。

 具体的には、節度使の権限を大幅に削減し、地方の軍事勢力を弱体化させるのですが、兵士を急に減らすと、失業兵士が賊に成る可能性が大きいので、急には減らしません。
そのかわり新しい兵士を採用せず、兵士は1年又1年と歳をとり年齢が進みます。
現実、これでは戦力としては役に立ちませんが、政府は彼等に地方都市の城壁の修理、橋、堤防工事等を行わせ、地方軍を骨抜きにしていきます。

 代わってに皇帝直属の軍、「禁軍」を強化していきます。

 軍人の力を削って、代わりに文人官僚による行政機構を整備し、多くの文人官僚を採用する為に科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験が実施されました。

 「選挙」という名で隋の時代から始まり、唐の則天武后時代に充実されていたのですが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からです。
この時代に貴族階級が消滅し、総ての官僚が科挙によって選ばれることに成りました。

◎科挙

 宋代の科挙は、誰でも受験することが可能で、年齢、出身地関係在りません。
但し女性は受験資格が在りませんでした。
試験は三年に一回、三段階の試験があります。
最初が郷試、これは地方試験、合格したら都で二次試験を受けることが出来、これを会試と呼びます。
会試を通過した受験者を最後に待ち受ける試験が殿試で、これは宋代から初まり、皇帝自身による面接試験で、宮殿で行う為殿試を呼ばれました。

 官僚に成ることが叶えば、一族皆が潤うような財産と権力とが手に入り、主席で合格すれば将来の大臣は約束された様なものだったのです。

 一旗揚げようと云う血気盛んな者達は、腕力に頼るのでは無く、机に向かって勉強する様に成り、政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚に成ったが話が早い訳です。
その様な意味でも、政府は積極的に科挙を宣伝し、以下は科挙を受験する様にに勧める歌です。

 「金持ちになる為に良田を買う要はない。
  本のなかから自然に千石の米がでてくる。
  安楽な住居に高殿をたてる要はない。
  本のなかから自然に黄金の家がとび出す。
  外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。
  本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。
  妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。
  本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。
  男児たるものひとかどの人物になりたくば、経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」
  
※宮崎市定「科挙」中公新書より

 窓口に向かって、の表現は、何分千年も前位の時代ですから照明は暗く、日が暮れかけても窓からは光が射し込むから暗くなっても勉強しろ、ということを比喩しているのです。

 この歌は太宗趙匤義が創って意図的に流行させたといわれ、人民を取り込むのに必死だった結果ですが、太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもありました。

 子供に勉強させるだけの余裕のある家は、必死に受験勉強させます。
少し利発な子供なら、親戚皆でお金を出し合って評判の良い先生のところに入門させて、科挙の準備をさせます。
子供は一族の期待を一心に担って勉強するのですから、そのプレッシャーは、現在の大学や法曹の受験勉強とは比較に成らないことでしょう。
優秀な人だと十代で合格する場合も在りますが、五十代、六十代になっても朝鮮し続ける人もいました。

 合格率は、17世紀初頭、明朝末期の数字ですが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万人、それに対して殿試合格定員が300人程度なので、凄まじい競争率と言わざるを得ません。

統一国家の成立:続く・・・

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