歴史のお話その184:宋時代の周辺国家①
<宋時代の周辺国家>

◎契丹
現在の中国東北部には、様々な少数民族が居住していますが、遼河の流域で半農半牧の生活を送っていた、契丹族と云う部族が居ました。
彼等は、唐の支配が緩むに従い、政治的に自立する傾向が強くなり、916年、契丹諸部族は統一され、遼(りょう)を建国しました。
建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)、耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名です。
遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げ、当然の様に、しばしば中国北辺に侵入します。
五代十国時代には中国の燕雲十六州を獲得しています。
燕雲十六州は、現在の北京を中心とする地域で、燕、雲は州の名称です。
十六の州が在ったのでまとめて燕雲十六州と呼びますが、この地域を遼が獲得した事情を簡単に説明します。
五代の二番目に後唐王朝が有り、この王朝を倒したのが後晋です。
後晋の建国者が石敬瑭(せきけいとう)、彼は後唐の節度使だったのですが、反乱をおこして後唐を滅ぼしたのです。
この時、石敬瑭は軍事力が十分では無かった為、遼に援助を求め、遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州なのです。
結局、石敬瑭は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲りました。
燕雲十六州は万里の長城の内側ですから、中国の伝統的な領土で、住んでいる者も漢民族の農耕民です。
これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下のままでした。
北方の民族が中国を支配することは、五胡十六国時代以来在ったのですが、それまでの北方民族は総て、中国の文化に同化していきました。
北魏が好い例で、孝文帝が漢化政策を実施したことは、先に書きました。
五代後唐の支配者も突厥系、トルコ人が中国文化に同化した人達で、後晋の石敬瑭もやはりトルコ系ですが、彼等自身がそのことを意識して行動している節は無く、既に完全に中国化している様に思えます。
ところが、遼の契丹族はそうでは在りませんでした。
中国文化に同化することを極力避け、民族の独自性を保とうとしたのです。
その為には燕雲十六州の統治は、慎重におこなう必要が在り、下手をすると中国文化に感化されてしまい、何時の間にか同化してしまう事に成りかねません。
そこで、遼は「二重統治体制」を採用し、燕雲十六州の支配制度を北方の自分達の本拠地とは完全に切り離し、両者が混じり合わないようにしたのです。
遊牧民の世界には北面官と云う役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治します。
漢民族等の農耕民族には南面官と云う役所を置いて、州県制によって支配しました。
この様に民族文化の独自性を守る姿勢は、文字制定と云う形でも現れ、契丹族は漢字の使用を避けて、民族独自の文字を作ったのです。
これが、契丹文字で、字形から判断すれば、漢字の影響を強く受けている事が大変良く理解出来ます。
因みに日本でも同じ時期に「かな」が発明されます。
唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えましたが、唐の衰退後、周辺諸民族は民族意識に目覚めて行ったのでした。
さて燕雲十六州は、中国(漢民族)から見れば本来は自分達の土地です。
宋は中国の統一をした後、燕雲十六州奪還を企て、しばしは遼軍と対決しますが勝てません。
1004年には、遼は宋の都、開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結びました。
この和平条約を「澶淵(せんえん)の盟」と呼びます。
この条約で、宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈る事、宋を兄,遼を弟とする事、両国国境は現状維持、と決められました。
宋が兄で遼が弟なのですから、名目的には宋の方が偉い形ですが、兄の宋は弟の遼に毎年莫大な資金を渡さなければならず、国境現状維持の意味は、燕雲十六州を宋は今後共に放棄する意味ですから、実質的に遼の勝利です。
これ以後宋と遼は基本的には平和が保たれました。
宋時代の周辺国家:続く・・・

◎契丹
現在の中国東北部には、様々な少数民族が居住していますが、遼河の流域で半農半牧の生活を送っていた、契丹族と云う部族が居ました。
彼等は、唐の支配が緩むに従い、政治的に自立する傾向が強くなり、916年、契丹諸部族は統一され、遼(りょう)を建国しました。
建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)、耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名です。
遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げ、当然の様に、しばしば中国北辺に侵入します。
五代十国時代には中国の燕雲十六州を獲得しています。
燕雲十六州は、現在の北京を中心とする地域で、燕、雲は州の名称です。
十六の州が在ったのでまとめて燕雲十六州と呼びますが、この地域を遼が獲得した事情を簡単に説明します。
五代の二番目に後唐王朝が有り、この王朝を倒したのが後晋です。
後晋の建国者が石敬瑭(せきけいとう)、彼は後唐の節度使だったのですが、反乱をおこして後唐を滅ぼしたのです。
この時、石敬瑭は軍事力が十分では無かった為、遼に援助を求め、遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州なのです。
結局、石敬瑭は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲りました。
燕雲十六州は万里の長城の内側ですから、中国の伝統的な領土で、住んでいる者も漢民族の農耕民です。
これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下のままでした。
北方の民族が中国を支配することは、五胡十六国時代以来在ったのですが、それまでの北方民族は総て、中国の文化に同化していきました。
北魏が好い例で、孝文帝が漢化政策を実施したことは、先に書きました。
五代後唐の支配者も突厥系、トルコ人が中国文化に同化した人達で、後晋の石敬瑭もやはりトルコ系ですが、彼等自身がそのことを意識して行動している節は無く、既に完全に中国化している様に思えます。
ところが、遼の契丹族はそうでは在りませんでした。
中国文化に同化することを極力避け、民族の独自性を保とうとしたのです。
その為には燕雲十六州の統治は、慎重におこなう必要が在り、下手をすると中国文化に感化されてしまい、何時の間にか同化してしまう事に成りかねません。
そこで、遼は「二重統治体制」を採用し、燕雲十六州の支配制度を北方の自分達の本拠地とは完全に切り離し、両者が混じり合わないようにしたのです。
遊牧民の世界には北面官と云う役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治します。
漢民族等の農耕民族には南面官と云う役所を置いて、州県制によって支配しました。
この様に民族文化の独自性を守る姿勢は、文字制定と云う形でも現れ、契丹族は漢字の使用を避けて、民族独自の文字を作ったのです。
これが、契丹文字で、字形から判断すれば、漢字の影響を強く受けている事が大変良く理解出来ます。
因みに日本でも同じ時期に「かな」が発明されます。
唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えましたが、唐の衰退後、周辺諸民族は民族意識に目覚めて行ったのでした。
さて燕雲十六州は、中国(漢民族)から見れば本来は自分達の土地です。
宋は中国の統一をした後、燕雲十六州奪還を企て、しばしは遼軍と対決しますが勝てません。
1004年には、遼は宋の都、開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結びました。
この和平条約を「澶淵(せんえん)の盟」と呼びます。
この条約で、宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈る事、宋を兄,遼を弟とする事、両国国境は現状維持、と決められました。
宋が兄で遼が弟なのですから、名目的には宋の方が偉い形ですが、兄の宋は弟の遼に毎年莫大な資金を渡さなければならず、国境現状維持の意味は、燕雲十六州を宋は今後共に放棄する意味ですから、実質的に遼の勝利です。
これ以後宋と遼は基本的には平和が保たれました。
宋時代の周辺国家:続く・・・
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