2013/08/17

歴史のお話その186:宋時代の周辺国家・番外編

<敦煌文書>

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 中国大陸、河西通廊を西へ西へと進んだに果てに、敦煌の町は在りました。
中国の絹は、ここから「絹の道:シルクロード」を通って西へ、遠くは遥かギリシャ、ローマ迄運ばれ、西からの品物や文書は、敦煌を経由して中国、朝鮮、日本に送られて行きました。
仏教もいち早く敦煌へ伝授し、インドや西域で営まれた石窟寺院が、敦煌の周辺に造られたのでした。

 敦煌周辺の石窟寺院の内、最大のものは、莫高窟で、千仏洞とも呼ばれていました。
4世紀の半ばから造営され、隋・唐・宋の時代を経て、14世紀、元の地代に至る迄石窟は、造営され続け、約1.6kmの断崖に大小600余りの洞窟が掘られています。
しかし、遠い辺境の石窟は、何時しか中国の人々から忘れ去られ、遺跡も荒廃が進んでいたのです。

 19世紀も最後の年、1900年、この千仏洞に暮らしていた、王道士(道教の僧)によって、石窟の一つに大量の文書が秘蔵されている事が判明しました。
其処には、経典、庶民の生活記録、日常の取引記録、或は、牧童の恋歌迄、石窟の奥にある小部屋にぎっしりと詰め込まれ、入り口は、泥で密封されていました。
王道士は、この発見を役所に報告したものの、役人達は、古文書に関して一切興味を示さなかったと云います。

 この発見に着目したのは、寧ろ諸外国で、1905年、ロシアの探検隊が訪れ、若干の古文書を持ち去り、1907年には、イギリスの探検家スタインが、窟を訪れます。
スタインは、王道士を上手く操り、1万点に及ぶ文書類をロンドンに運びました。
1908年、フランスの東洋学者ペリオが訪れ、アジアの言語に通じた彼は。石窟内の文書から特に貴重な物を5000余点選び出し、パリへの帰国途中、北京でその一部を公開したのですが、それは、中国の学者達を震撼させるに十分な資料だったのです。

彼等は、時の中国政府に働き掛け、取り残された文書類、約1万点を北京に運びました。
其の後、1912年に、日本の大谷探検隊が、1000点に近い古文書類を日本に運び、1914年には、再びロシアの探検隊が、訪れています。

 こうして現在迄に知られた、敦煌文書は、総数4万点に近く、その大部分が5世紀から、11世紀に及ぶ未知の資料でした。
仏典、中国古典、キリスト教(景教)等の経典、漢文以外にチベット語、ウイグル語、更には死語となった中央アジア諸国の言語、文字で記された文書も多数発見されました。
更には、経典の裏には、戸籍が書かれ、又契約書、帳簿、習い文字に用いた紙片迄在りました。

 この様な日常の文書は、貴重ですが、この様な大量な文書類を、誰が、何時、如何なる理由で、千仏洞の一角に密封したのでしょう?
20世紀最大の発見の一つと云われる、敦煌文書が、如何なる理由で収蔵され、今日迄伝えられたかのかは、永遠に解からないと思います。

 敦煌文書は、5世紀から11世紀初頭のものであり、之等は11世紀に収蔵されたのでしょうか?
この時代、中国は宋の地代で、黄河の上流では、チベット系の西夏が建国していました。
やがて、西夏は、李元高の時代、吐伴、ウイグル等の周辺諸国を併合し、宋の領土に迫ります。
特にウイグルは、ヤグラ汗の御世、かつて強大な国家を築いたウイグルも、終に西夏の前に敗走し滅亡します。
当時、宋は既に江南、開封の逃れ南宋の時代となり、その国力を衰える一方でしたから、辺境の地、敦煌の人々が西夏の進行をどれ程恐れたかは、十分想像できます。

 石窟寺院の大規模な造営からも推察される様に、敦煌では仏教が盛んな町でしたから、何よりも大切な仏典を戦火から守る為、限られた時間の中でそれらを隠したのでしょう。
その時、経典だけでなく、手当たり次第にあらゆる文書類を運びこんだのか、不要な書類を収納していた窟に、重要な経典を詰め込んだのかは、現在では想像するしか方法が有りません。
種類を問わず、雑然と積み込まれ、しかも封印されていた石窟の意味を、現在の歴史家はこの様に推察しています。

敦煌文書:終わり・・・
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