fc2ブログ
2013/08/19

歴史のお話その187:宋の終焉とその後①

<王安石の改革と金の建国その①>

11133132_convert_20130819203322.jpg

◎王安石の改革

 遼、西夏という隣国に対して宋は、お金で平和を買うという政策をとるようになりました。

 但しこれも長期化すると、流石の経済大国、宋でもその財政は苦しくなるのは当然でした。
遼と西夏に支払う歳貢が、宋政府の財政を圧迫するように成り、政治改革を行なって財政再建をすることが宋政府の課題となります。

 この様な状況で登場した人物が王安石、第六代皇帝神宗が抜擢して政治改革を委ねた大臣でした。
王安石は親父さんも科挙官僚でしたが、彼が19歳の時に亡くなります。
王安石は頭脳明晰で22歳で科挙に合格しました。
4番の成績で合格したので中央政界で、出世街道を驀進することもできたのですが、一家の生活を支える為に実入りの大きい地方官の道を選びます。
地方の実状を知る中で、政治の矛盾や不合理について考えるように成り、やがて地方で実績を上げ評判に成りました。
ついには45歳で神宗に抜擢されて宰相に就任します。
宰相は皇帝から全面的に政治を任される、現在に例えれば総理大臣です。

 さて、王安石は新法という呼び名で有名になる政策を断行して、財政再建を図ります。

 財政再建の為に一番簡単な方法は増税です。
しかし、ただ増税するだけでは一時的に財政難をしのげても、長期的観点からは、人民の生活は疲弊するだけなので、王安石は貧しい人々の生活を豊かにすることを同時に考えました。
景気が良くなるだけでなく、貧困層が豊かになれば自然に税収は増えると発想をしたのです。

 王安石の新法は大きく分けて六つ在ります。

 青苗法(せいびょうほう)、均輸法(きんゆほう)、市易法(しえきほう)、募役法(ぼえきほう)、保甲法(ほこうほう)、保馬法(ほばほう)です。

 青苗法は政府が、農民に低金利で金を貸す法律です。
大きな土地を持っていない限り自作農は、ぎりぎりの生活をしている者が多く、自分の土地を持っていてもそれだけでは足りないものは地主・形勢戸から農地を借りている場合も多いのです。

 農民はサラリーマンと違って、決まった収入が毎月あるわけでは無く、米を作っているのなら、収穫は秋だけです。
収穫をしたら早速政府に税を納め、土地を借りていたら小作料を地主に支払い、更に米を売ったお金で必要最小限の生活道具や農具を買わなければ成りません。
そして、最後に残った収穫物で、翌年の秋迄食べ繋ぐですが、翌年の収穫迄もてば良いのですが、そうはいかない場合も多いのです。
不作の年であれば、食料用の米もすぐに無くなり、そうなると借金をして生計を立てなければ成りません。
農民が借金をする先は地主です。

 この地主からの借金の利子が高かく、一度借金生活に入ってしまうとなかなか抜けられないものです。
秋の収穫の後、税、小作料、それに借金と利子を払うともう自分の取り分がなくなり、また借金繰り返し、最後には借金が払えきれなくなって、わずかばかりの土地も売り払って隷農か浮浪者に転落していくことに成ります。

 この様に自作農が没落すると、政府から見れば課税対象者が減る訳で、自作農を没落させず、一生懸命働いて収穫を上げ、しっかり納税してもらわないと困るのです。

 そこで、自作農救済策として政府が地主よりも低金利で農民に金を貸すことにしました。
低金利といっても20%から30%の利子と云いますから、現在の目で見れば結構高利です。
それだけ地主の利子が高かったということでしょう。

 青苗法は新法の中でも成果を挙げたものの一つでした。

宋の終焉とその後:続く・・・

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

こんばんは

科挙という制度は、優秀な人材を発掘しようという、前向きな精神からの制度に思えます。
過酷な試験ではありますが、その点ではすばらしいと思います。