歴史のお話その188:宋の終焉とその後②
<王安石の改革と金の建国その②>

◎王安石の改革②
均輸法は漢の武帝の時代に実施された事が在り、内容的には全く同様です。
物価の安定と流通の円滑化を図る為に、政府が市場価格の安い時に物資を買い上げ、高い時期や他の地方に転売して、商人の中間利潤をできるだけ押さえようとしたものです。
物価が安く安定しておれば、貧しい民衆に取ってこれ程有難い事は無く、生活も楽になります。
市易法は青苗法の都市版と考えると、理解し易いでしょう。
都市には、零細商人が多数居り、彼等は豪商達の買い占めや価格操作の為に、常に圧迫されていました。
市易法は、政府によって、中小零細商人に低利で営業資金を貸し出すものです。
募役法、これは複雑なのです。
納税なのですが、現在の給料生活者なら給料を受け取る時に(好むと好まざるとに関わらず)自動的に市町村民税が、控除されていますね。
自分から納めに行く必要は原則ありませんが、之が自営業の人達は、確定申告を自分で行い、所管税務署へ行って手続きをしなければなりません。
但し、税務署に一日出かけて行く位のもので、大変機械的に手続きは終わるので、それ程手間がかかるものでは在りません。
では此れが、農業社会ではどうなるのか?中国のように広大な国ではどうなるのでしょうか?
一軒の農家に村全体の税を徴収して、しかもそれを県の役場迄、運ぶ仕事が割り当てられるのですが、これを職役と云い、大変な仕事でした。
若し職役が巡ってくれば家が潰れる、と云われていました。
何が大変なのでしょうか?
先ず、兎に角、金がかかり、租税を役場に運ぶと簡単に云いますが、田舎の場合、役場迄何日もかかる場合も多々在り、しかも米、小麦やその他の現物を村の分全部まとめて輸送するのですから、量は莫大です。
この輸送費用を職役に当たった農家が自己負担で運ばなければならず、その上輸送途中に、変質、劣化、滅失した場合には、輸送担当の農民の負担に成るのです。
実際、職役が当たった為に、自分の土地を売って費用を捻出する、という事も多々在り、自作農が没落してしまうのです。
政府は決められた税額が納入されればそれで良いのであって、その為に農民が没落してもそれは政府の預かり知らぬ事、と云うのが基本的な態度でした。
但し、官戸、官僚をだした家は、職役が当たらない特権が存在していました。
王安石は、この職役の過酷さを解消する為に、農家全体から免役銭を徴収して、その金で職役を担当する者を雇わせました。
毎年、一軒の農家に重い負担を強いるのでは無く、広く薄く負担させる方法に切り替えました。
これが募役法。
保甲法と保馬法は、上の四つとは違って直接農民や商人を救済する政策ではありません。
軍事に関するものです。
保甲法は、農家を組織して自警団を作らせ、遼や西夏と接する地方では軍事訓練もおこなって軍事費の削減をめざしました。
保馬法はこういう農家に軍馬を飼育させたものです。
◎党争の激化
王安石は宰相として新法を実行していくのですが、反対派の官僚も多くいました。
本来中国の歴代王朝では、その王朝の創始者の定めた政治体制を改革する事を良しとしない、伝統的な考え方が存在し、大胆な改革は内容に関係なく嫌われるのです。
王安石の新法に反対する官僚達は旧法党と呼ばれ、旧法党の中心人物は司馬光(しばこう)でした。王安石は新法を実施する時、司馬光にも協力を要請したのですが断られ、その後、司馬光は最後迄、新法に反対し続けました。
新法を支持するグループを新法党と呼び、やがて、王安石の後ろ盾だった神宗が崩御すると、宋の政界は新法党と旧法党の争いに明け暮れるようになります。
王安石の新法が継続して実施され続けた場合、大きな成果を挙げたかもしれないのですが、王安石が宰相を退いた後は、旧法党と新法党が交互に政権を担当するようになり、そのたびに報復人事が繰り返される結果と成りました。
良かれと思って始めた新法が、政策の動揺と国家体制の弱体化を招くことになってしまったのです。
旧法党はなぜ、王安石の新法に反対したのでしょうか。
先ほど述べた、改革を伝統的に嫌うという理由以外に大きな原因がありました。
新法の政策を考えてみると、高利貸しでもうけている地主や、大商人の利益を押さえて、自作農や中小商人を保護するというところが要点です。
これは、地主や大商人にはありがたくない政策です。
つまり、旧法党の人々は大地主、大商人の利益を守る立場に立っていたということなのです。
科挙に合格する人達は、家が大地主や縁者が大きな商売をしていたりするものです。
自分たちの不利益になるような政策に賛成する訳がないのです。
この様に考えれば、王安石は個人的な利害よりも国家の利益を優先させて考えることができた政治家だった言えます。
宋の終焉とその後:続く・・・

◎王安石の改革②
均輸法は漢の武帝の時代に実施された事が在り、内容的には全く同様です。
物価の安定と流通の円滑化を図る為に、政府が市場価格の安い時に物資を買い上げ、高い時期や他の地方に転売して、商人の中間利潤をできるだけ押さえようとしたものです。
物価が安く安定しておれば、貧しい民衆に取ってこれ程有難い事は無く、生活も楽になります。
市易法は青苗法の都市版と考えると、理解し易いでしょう。
都市には、零細商人が多数居り、彼等は豪商達の買い占めや価格操作の為に、常に圧迫されていました。
市易法は、政府によって、中小零細商人に低利で営業資金を貸し出すものです。
募役法、これは複雑なのです。
納税なのですが、現在の給料生活者なら給料を受け取る時に(好むと好まざるとに関わらず)自動的に市町村民税が、控除されていますね。
自分から納めに行く必要は原則ありませんが、之が自営業の人達は、確定申告を自分で行い、所管税務署へ行って手続きをしなければなりません。
但し、税務署に一日出かけて行く位のもので、大変機械的に手続きは終わるので、それ程手間がかかるものでは在りません。
では此れが、農業社会ではどうなるのか?中国のように広大な国ではどうなるのでしょうか?
一軒の農家に村全体の税を徴収して、しかもそれを県の役場迄、運ぶ仕事が割り当てられるのですが、これを職役と云い、大変な仕事でした。
若し職役が巡ってくれば家が潰れる、と云われていました。
何が大変なのでしょうか?
先ず、兎に角、金がかかり、租税を役場に運ぶと簡単に云いますが、田舎の場合、役場迄何日もかかる場合も多々在り、しかも米、小麦やその他の現物を村の分全部まとめて輸送するのですから、量は莫大です。
この輸送費用を職役に当たった農家が自己負担で運ばなければならず、その上輸送途中に、変質、劣化、滅失した場合には、輸送担当の農民の負担に成るのです。
実際、職役が当たった為に、自分の土地を売って費用を捻出する、という事も多々在り、自作農が没落してしまうのです。
政府は決められた税額が納入されればそれで良いのであって、その為に農民が没落してもそれは政府の預かり知らぬ事、と云うのが基本的な態度でした。
但し、官戸、官僚をだした家は、職役が当たらない特権が存在していました。
王安石は、この職役の過酷さを解消する為に、農家全体から免役銭を徴収して、その金で職役を担当する者を雇わせました。
毎年、一軒の農家に重い負担を強いるのでは無く、広く薄く負担させる方法に切り替えました。
これが募役法。
保甲法と保馬法は、上の四つとは違って直接農民や商人を救済する政策ではありません。
軍事に関するものです。
保甲法は、農家を組織して自警団を作らせ、遼や西夏と接する地方では軍事訓練もおこなって軍事費の削減をめざしました。
保馬法はこういう農家に軍馬を飼育させたものです。
◎党争の激化
王安石は宰相として新法を実行していくのですが、反対派の官僚も多くいました。
本来中国の歴代王朝では、その王朝の創始者の定めた政治体制を改革する事を良しとしない、伝統的な考え方が存在し、大胆な改革は内容に関係なく嫌われるのです。
王安石の新法に反対する官僚達は旧法党と呼ばれ、旧法党の中心人物は司馬光(しばこう)でした。王安石は新法を実施する時、司馬光にも協力を要請したのですが断られ、その後、司馬光は最後迄、新法に反対し続けました。
新法を支持するグループを新法党と呼び、やがて、王安石の後ろ盾だった神宗が崩御すると、宋の政界は新法党と旧法党の争いに明け暮れるようになります。
王安石の新法が継続して実施され続けた場合、大きな成果を挙げたかもしれないのですが、王安石が宰相を退いた後は、旧法党と新法党が交互に政権を担当するようになり、そのたびに報復人事が繰り返される結果と成りました。
良かれと思って始めた新法が、政策の動揺と国家体制の弱体化を招くことになってしまったのです。
旧法党はなぜ、王安石の新法に反対したのでしょうか。
先ほど述べた、改革を伝統的に嫌うという理由以外に大きな原因がありました。
新法の政策を考えてみると、高利貸しでもうけている地主や、大商人の利益を押さえて、自作農や中小商人を保護するというところが要点です。
これは、地主や大商人にはありがたくない政策です。
つまり、旧法党の人々は大地主、大商人の利益を守る立場に立っていたということなのです。
科挙に合格する人達は、家が大地主や縁者が大きな商売をしていたりするものです。
自分たちの不利益になるような政策に賛成する訳がないのです。
この様に考えれば、王安石は個人的な利害よりも国家の利益を優先させて考えることができた政治家だった言えます。
宋の終焉とその後:続く・・・
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