2013/08/21

歴史のお話その189:宋の終焉とその後③

<王安石の改革と金の建国その③>

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宋の都、開封の繁栄

◎金の建国と靖康の変

 宋が新法党、旧法党の争いで混乱しているちょうどその時、現在の中国東北地方で新たな民族の活動が活発化します。
遼の支配下にある沿海州から中国朝鮮国境あたりにかけて女真族が居住していました。
半猟半農生活で、毛皮や砂金を遼に納めていたのですが、やがて完顏阿骨打(わんやんあくだ)が諸部族を統一して国号を金として建国します(1115年)。

 遼の国の東端で独立国が成立し、当然遼は軍隊を送って、金を圧迫しようと試みるのですが、金の女真族が遼軍に勝って独立を確保します。
当時の遼は建国時の勢いを失い、軍隊は弱体化しており、宋から莫大な歳貢を贈られて軟弱に成っていたのでしょう。

 宋は北方で金と云う新興国が、遼と戦っているのを知ってこの機会を逃すまいと考えました。
「金と同盟を結んで遼を南北から攻めて滅ぼすことができないか?」。
早速宋と金の軍事同盟が結ばれ、遼が滅亡した後は、万里の長城以北は金、以南は宋の領土とする条件なので、成功すれば、悲願の燕雲十六州が取り戻せるわけです。

 金と宋による作戦が始まると遼は瞬く間に滅亡します(1125年)。

 この時に金軍は瞬く間に長城以北を制圧するのですが、南を分担していた宋軍はその弱体化を露見してしまいます。
燕雲十六州に攻め込むのですが、遼の守る都市を攻め落とす事ができず、長城以北はすっかり制圧されているにも関わらず、唯一燕雲十六州の遼軍だけが抵抗を続ける状態に成りました。

 金軍は長城迄進出し、様子を見守っています。
長城以南は宋軍の作戦地区ですから、宋軍の動きを見守っています。
しかし、宋軍は残存の遼軍を駆逐できず、金軍が燕雲十六州に進軍し、やっと遼の残存勢力を撃破して遼は滅んだのです。

 このときに遼の王族の一人耶律大石(やりつたいせき)が西方に逃れて、中央アジアで西遼(せいりょう、「カラ・キタイ」とも呼ぶ)を建国しています。
契丹族の勢力が中央アジアまで及んでいたことがわかります。

 遼が滅亡した後、金と宋の共同作戦と言いながら、実際には宋は何も出来ませんでした。
ところが事前の約束通りに、長城以南燕雲十六州の領土を要求した為、金側は、予定の戦略行動も行なっていないにも関わらず、領土要求する宋の態度は許せません。

 これを発端として、金と宋の不許和音が始まります。
宋は多額の金品と引き替えに北京方面の領有を金に認めさせるのですが、その約束を守らず、金品を払いません。
債務不履行に対して金が軍隊を出動させると、その場を上手くすり抜けるのですが、また約束を反故にする。

 度重なる宋の同盟違反に対して、ついに金は大軍を南下させ、都開封を攻め落とし、皇帝徽宗と息子の欽宗を捕虜にして長城の北に連れ去ってしまいました。
徽宗は金軍が攻めてくると責任逃れの為に急遽息子に位を譲った結果、正確にはこの問の皇帝は欽宗です。

 この事件を「靖康(せいこう)の変」と呼び1127年の事で、宋は滅亡してしまいました。

 しかしながら、金は中国の南部迄支配下におさめるだけの力は無く、華北を支配するだけで精一杯だったようです。
女真族自体はそれほど人口も多いとは思われず、此れまでの急成長で国力は精一杯だったのでしょう。

 中国南部には、宋の皇族の一人が南宋を建国します。
これに対して、靖康の変で滅んだ宋を北宋と呼びます。

 金は遼につづく征服王朝と成り、中国統治についても遼の二重統治体制を引き継ぎます。
遊牧民に対しては猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)制を適用し、各300戸で1謀克、10謀克で1猛安とする軍事編成の組織をそのまま行政組織に利用したものです。
猛安、謀克というのは女真語に漢字に置き換えたものです。

 これに対して、漢民族など農耕民社会には州県制、科挙などを実施して遊牧民に対する統治とは分けていきます。

 基本的に女真族は独自の民族文化の維持を心がけていて、女真文字を制定しています。
また、女真族の男達は前髪をそり落として後頭部の髪を伸ばして編むのですが、この髪型を金朝支配下の漢民族にも強制しています。
中国最後の王朝清朝も実はこの女真族が建てた国で、同じ髪型を中国人に強制しました。
弁髪と呼ばれる特徴在る髪型です。

宋の終焉とその後:続く・・・

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