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2013/08/23

歴史のお話その190:宋の終焉とその後④

<南宋・宋代の社会と文化>

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◎南宋

 靖康の変で徽宗、欽宗親子が金軍によって、北方に連れ去られた後、徽宗の息子の一人高宗が南方に逃れて建国したのが南宋(1127年~1279年)、首都は臨安、今の杭州です。
臨安の意味は、臨時の皇帝の居場所という意味で、何時かは金から中国北部を奪還しようという意図がこめられています。

 建国早々の南宋では、金に対して如何なる政策を実施するかが、課題と成り、結果的に和平派と主戦派が対立しました。

 和平派の代表政治家が秦檜(しんかい)で、この人物は靖康の変の時に、徽宗達と一緒に捕虜として連行され、暫く金国で暮らした経験が在り、新興国家である金の勢い、質実さ、強さを充分見聞した訳です。
その秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還する行為そのものは、将来の希望としては良いが、現実は全く不可能であって、その様な行為を実行する事は、南宋滅亡の原因と成りかねず、南北で金と南宋は棲み分けをして、友好関係を築く事が現実的な選択と説いています。

 秦檜の言葉、考えは、それなりに説得力はあるのですが、一つ大きな問題が在りました。
それは秦檜自身の問題でした。
金の捕虜になっていた秦檜が、何故南宋に帰ってくる事を許されたのか、と云う疑惑が持たれていたのです。
現在風に考えれば、秦檜は対南宋和平工作の為に金から送り込まれた(思想)工作員ではないか、と云う事なのです。(似たようなお話は、日本の回りにも結構在りますね)

 更には、秦檜の和平の主張がいくら理にかなっていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようというのは、如何にも弱腰な主張ではないでしょうか?

 この考えに対して、あくまでも戦って領土を奪還する主戦派の主張は、その勇ましさから、支持者も多かったのです。

 この主戦派の代表者が岳飛(がくひ)で、彼は軍人一筋に生きてきた人物で、まだ三十代の若い将軍でした。
金との国境地帯の防衛に大活躍しましたが、彼の軍団は規律が厳しく守られた事で有名でした。

 皇帝高宗は秦檜の和平派を応援します。
岳飛は強く反対し、人望も在り軍隊を握っている岳飛が反対をとなえ続ける事は、高宗・秦檜には、何かと問題に成る事が多かった様です。
終に秦檜は、岳飛を都に呼びだして毒殺を実行します。

 これ以後秦檜は権力を握り続けるのですが、殺された岳飛はやがて民族の英雄として祭り上げられるようになりました。
 
 1142年、南宋は金と盟約を結び、両国の関係は「金君南宋臣」で、南宋は多額の歳貢を金に送る事になりました。

 しかし、華北を金に取られながらも南宋は経済的には繁栄します。
金は南宋を滅ぼす事は叶わず、南宋も華北を奪還することが同様出来ず、両国は大体淮河(わいが)を国境として住み分ける事に成りました。
やがて、この両国を滅ぼしてアジアを大統一するのが、モンゴルで、金は1234年、南宋は1278年、滅亡します。

宋の終焉とその後:続く・・・

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