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2013/08/29

歴史のお話その196:蒼き狼の帝国②

<モンゴル帝国の成立②>

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チンギス・ハーン誕生850年小型シート
白馬の手綱を引くチンギス・ハーンと背景にブルカン岳。
ブルカン岳はモンゴル帝国初代皇帝(大ハーン)となったチンギス・ハーンの故郷、墓所として神聖視されています。

◎モンゴル帝国の成立その②

 テムジンの父親イェスゲイは、モンゴル族の有力貴族の一人でした。
モンゴル族そのものが当時、統一されていない中で、イェスゲイは配下の集団を増やしてモンゴルの族長の地位を目指していました。
勢力が拡大すれば、その分良い牧草地を他の集団から奪うことができます。
又強い指導者の下には、多くの遊牧集団が集まり、強い指導者に従えば自分の安全も生活もそれなりに保証されることになります。

 ところが、イェスゲイは敵対するタタール族の何者かに毒殺されてしまいます。
テムジンが僅か9歳の時のことでした。
9歳の子供に集団を束ねること等できる筈もなく、イェスゲイの下に集まっていた遊牧民達はテムジン一家を見捨てて、次々に去って行きます。

 それでも、テムジンは7人兄弟の長男なので、9歳にして小さい弟達と母親を率いる家長として行動することになるのですが、瞬く間にテムジン一家は牧草地から追いやられ、遊牧民でありながら遊牧で生活すら出来ない様になります。

 彼等は狩猟採集生活をしながら何とか生き伸びます。
河に入って魚を捕まえたりも行ったことでしょう。
遊牧民は本来誇り高く、馬に跨り草原を疾駆することが彼等の本来の生活です。
地面に這いつくばって、河で魚を捕る行動は、最低の人間以下の暮らし、その様な感覚なのです。

 又、在る時は猟をして鹿を仕留めるのですが、獲物の分け合いで兄弟喧嘩になるのですが、なんとテムジンは弟二人をその時に殺しています。
食べ物の奪い合いで兄弟を殺すような生活を想像できますか?

 しかし、その様な極限の生活を生き抜く中で、テムジンは実行力、決断力、冷静さ、別の意味で残酷さを身に付けていきました。

 成長した後は、父親の昔の同盟者等を味方に付けながら、徐々に力を蓄え、モンゴル族を統一し、次には他のモンゴル高原の遊牧諸部族を配下に従えて、チンギス・ハーンと成りました。
この時の年齢が40代から50代の頃で、もう既に若い年齢ではなく、当時の感覚では老境に達したことでしょう。

 これ以後、彼の支配下に入った遊牧諸部族は総てモンゴルと呼ばれる様になります。

 遼の滅亡後、百年ぶりにモンゴル高原を統一したチンギス・ハーンは、この後、猛烈な勢いで征服活動を進め、支配地域を拡大しますが、遊牧民の潜在能力は一つにまとまると強烈です。

 当時のモンゴル人にとって、最も欲した地域は、東西交易路であり、貿易路を押さえれば遠隔商人達から莫大な税金をとることが可能となります。

 チンギス・ハーンが最初に征服した国が西遼で、遼が滅びる時に、王族の一人耶律大石が中央アジアに逃れて建国した国ですが、西遼の滅亡は1218年、正確には1211年に西遼の王座を簒奪したナイマン部を滅ぼしたのです。
1220年にはイランから中央アジアにかけて、領土を保有していたイスラム教国ホラズム王国を滅ぼし、この間に東の金に対しても攻撃を加えています。

 更に1227年、モンゴルからの援軍要請を断った西夏を滅ぼしますが、この時にチンギス・ハーンは亡くなりました。
彼の遺体はモンゴル高原のケルレン川の流域に埋葬されたらしいですが、副葬品の盗掘を恐れて何も記念物を残さず、埋葬地を隠す目的で騎馬軍団がその上を何度も往復して墓の痕跡を完全に消してしまいました。
その為、今もチンギス・ハーンの墓所は不明です。

 彼が滅ぼして領土に加えた国は、総て東西交易路上にある国です。
チンギス・ハーンの業績を一言で云えば、交易路を完全に支配下に置き、大遊牧国家の建設に成功したことです。
この段階でモンゴル帝国と呼んで差し支えないと思います。

蒼き狼の帝国:続く・・・


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