歴史のお話その200:蒼き狼の帝国⑥
<モンゴル帝国の発展②>

ワールシュタットの戦い
◎モンゴル帝国の発展その②
次男のチャガタイは、大勢の前でジュチの出生のことを口に出すような軽々しいところがあって、人望が無く、残る三男と四男、オゴタイとトゥルイが本命だったのですが、チャガタイがオゴタイと組んでオゴタイ即位となりました。
生前、チンギス・ハーンはジュチに西方へ遠征させるつもりで、「西の方どこまでもモンゴルの馬蹄で蹂躙できるすべての土地をおまえにやろう。」と約束していました。
ところが遠征実行前にチンギス・ハーンもジュチも他界してしまい、そこで、オゴタイはジュチの息子バトゥに対して、同遠征を命じました。
これが「バトゥの西征」、1236年から大遠征軍がロシア平原に出陣し、バトゥを総大将にするモンゴル軍は向かう処に敵は無く、ロシア平原を制圧してそのままポーランドに侵入したのです。
いきなり東方から現れた騎馬軍団に驚愕したのがヨーロッパの諸侯達です。
ドイツ、ポーランドの諸侯連合軍一万騎が、バトゥ軍別動隊三万騎から四万騎を迎え撃ったのですが、結果はモンゴル軍の圧勝に終わりました。
これをリーグニッツの戦い、又は、ワールシュタットの戦いと呼びます。
ワールシュタットは、この戦いの後で付いた地名で「死体の森」と云う意味なのです。
モンゴルが圧勝した理由は、前回に説明した機動力と、もう一つは集団戦法にヨーロッパ諸侯軍が対応できなかった結果です。
モンゴル騎馬軍団は整然とした隊列を組んで集団で攻めて来ます。
これに対して、ヨーロッパの軍隊は名誉と武勲を重んじる騎士の集まりの為、集団戦を行いません。平家物語の頃の武士と同じで、戦う前に「やあやあ、我こそは・・・・・」の口上を述べた後、一騎打ちして勝敗を決める戦法が基本です。
そのつもりで騎士達が構えていると、鎧甲らしい甲冑も付けず、ヨーロッパの騎馬に比べれば小さな馬に跨った軍団が集団で突入して来るのですから、これでは、ひとたまりもありません。
この後もモンゴル軍が進撃を続けていれば、ヨーロッパもモンゴル帝国の一部に成り得たと思われるのですが、ここで大事件が起きました。
オゴタイ・ハーンの急死です。
次の大ハーンを決める為のクリルタイに参加せよ、と云う連絡がモンゴル本国より来るのです。
バトゥは兵を引き戻し、但し、彼はモンゴル本国まで帰らず、ロシア平原に留まってこの地を自分の本拠地にします。
これがキプチャク・ハーン国と呼ばれ、モンゴル帝国の一部となります。
オゴタイ・ハーンの跡を継いだのは、その子のグユクですが、彼の即位には反対が多く、正式に大ハーンに成る迄に何年もの時間が必要でした。
更には、即位してまもなく亡くなり、オゴタイの死からグユクの死迄はモンゴル帝国の混乱期です。
グユクの死後、再度、大ハーンの位を巡って一族の間で争いが起き、第四代大ハーンになったのはモンケ(在位1251年~59年)、彼はチンギス・ハーンの末子トゥルイの子で、オゴタイ家からトゥルイ家に大ハーン位が移ったのには一族の長老バトゥの後押しがあった為でした。
チャガタイ家、オゴタイ家の連携に対して、ジュチ家、トゥルイ家は互に連合していたのです。
蒼き狼の帝国:続く・・・

ワールシュタットの戦い
◎モンゴル帝国の発展その②
次男のチャガタイは、大勢の前でジュチの出生のことを口に出すような軽々しいところがあって、人望が無く、残る三男と四男、オゴタイとトゥルイが本命だったのですが、チャガタイがオゴタイと組んでオゴタイ即位となりました。
生前、チンギス・ハーンはジュチに西方へ遠征させるつもりで、「西の方どこまでもモンゴルの馬蹄で蹂躙できるすべての土地をおまえにやろう。」と約束していました。
ところが遠征実行前にチンギス・ハーンもジュチも他界してしまい、そこで、オゴタイはジュチの息子バトゥに対して、同遠征を命じました。
これが「バトゥの西征」、1236年から大遠征軍がロシア平原に出陣し、バトゥを総大将にするモンゴル軍は向かう処に敵は無く、ロシア平原を制圧してそのままポーランドに侵入したのです。
いきなり東方から現れた騎馬軍団に驚愕したのがヨーロッパの諸侯達です。
ドイツ、ポーランドの諸侯連合軍一万騎が、バトゥ軍別動隊三万騎から四万騎を迎え撃ったのですが、結果はモンゴル軍の圧勝に終わりました。
これをリーグニッツの戦い、又は、ワールシュタットの戦いと呼びます。
ワールシュタットは、この戦いの後で付いた地名で「死体の森」と云う意味なのです。
モンゴルが圧勝した理由は、前回に説明した機動力と、もう一つは集団戦法にヨーロッパ諸侯軍が対応できなかった結果です。
モンゴル騎馬軍団は整然とした隊列を組んで集団で攻めて来ます。
これに対して、ヨーロッパの軍隊は名誉と武勲を重んじる騎士の集まりの為、集団戦を行いません。平家物語の頃の武士と同じで、戦う前に「やあやあ、我こそは・・・・・」の口上を述べた後、一騎打ちして勝敗を決める戦法が基本です。
そのつもりで騎士達が構えていると、鎧甲らしい甲冑も付けず、ヨーロッパの騎馬に比べれば小さな馬に跨った軍団が集団で突入して来るのですから、これでは、ひとたまりもありません。
この後もモンゴル軍が進撃を続けていれば、ヨーロッパもモンゴル帝国の一部に成り得たと思われるのですが、ここで大事件が起きました。
オゴタイ・ハーンの急死です。
次の大ハーンを決める為のクリルタイに参加せよ、と云う連絡がモンゴル本国より来るのです。
バトゥは兵を引き戻し、但し、彼はモンゴル本国まで帰らず、ロシア平原に留まってこの地を自分の本拠地にします。
これがキプチャク・ハーン国と呼ばれ、モンゴル帝国の一部となります。
オゴタイ・ハーンの跡を継いだのは、その子のグユクですが、彼の即位には反対が多く、正式に大ハーンに成る迄に何年もの時間が必要でした。
更には、即位してまもなく亡くなり、オゴタイの死からグユクの死迄はモンゴル帝国の混乱期です。
グユクの死後、再度、大ハーンの位を巡って一族の間で争いが起き、第四代大ハーンになったのはモンケ(在位1251年~59年)、彼はチンギス・ハーンの末子トゥルイの子で、オゴタイ家からトゥルイ家に大ハーン位が移ったのには一族の長老バトゥの後押しがあった為でした。
チャガタイ家、オゴタイ家の連携に対して、ジュチ家、トゥルイ家は互に連合していたのです。
蒼き狼の帝国:続く・・・
スポンサーサイト
コメント