歴史のお話その202:蒼き狼の帝国⑧
<モンゴル帝国の発展④>

上都が存在した内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部の風景
◎モンゴル帝国と東西交流
フビライの大ハーン即位に反対して、オゴタイの孫に当たるハイドゥが反乱(1266年~1301年)を起こしていますが、この事件はモンゴル帝国分裂の象徴的出来事でしたが、実際には大きな戦闘は一度しかなかったといいます。
処でフビライは、チンギス・ハーンの一族の中では変わり者と見なされていました。
彼のどこが変わっているかと言えば、一言で中国寄りなのです。
代々、モンゴルの王侯達は中国文化には関心が薄く、イラン文化に代表される西方の文化に興味を持つことが普通でした。
ところが、フビライは長い間南宋攻略の為、彼の地に赴いていた結果、自然と中国人と接触する機会も多く、中国文化を好む様に成ったのでしょう。
大ハーン即位後、モンゴル帝国の首都をモンゴル高原のカラコルムから中国北部の大都(モンゴル名 Khān Bālīq / Qan-balïq:ハンバリーク・カンバリーク、現在の北京)に冬の都を建設し更に夏の都である上都(モンゴル名Shàngdū :ザナドゥ)を建設しました。
余談ですが、上都は、イギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジによって、1816年に『クブラ・カーン、あるいは夢で見た幻影:断片』として発表され、その中でザナドゥを取り上げました。
マルコポーロの「東方見聞録」とコールリッジの作品で、ヨーロッパ人は、上都に関する想像を抱いたと云います
更に、国号を元と中国風に改め、1279年には南宋を滅ぼして東アジア全域を支配下に入れました。
日本、ビルマ、ヴェトナム、ジャワや更に遠方に遠征軍を送り出しますが、これらは総て失敗に終わっています。
この様な遠征を行った意味は、モンゴルがそれまでに作り上げた陸上の連携に海上の連携を結びつけ様とする試みだったという説もあります。
フビライ以後、元は中国の王朝と成りました。
西はロシア、シリアから東は中国本土迄、ユーラシア大陸の大部分を支配し、モンゴル帝国は歴史上空前絶後の領土を持つ国家に成長しました。
ユーラシア大陸全体が、一つの国家に成った為、戦争行為は消滅しこれを「タタールの平和」と呼びます。
此処でタタールとはモンゴルを意味しています。
モンゴル帝国は東西交易路の安全を確保する為に、駅伝制を整備し、この駅伝のことをモンゴルではジャムチと云い、モンゴル政府発行の通行証が牌子(はいず)で、この通行証を持っていれば街道沿いにある宿駅で宿泊し、馬を交換等と便宜を受けながら旅をすることができました。
駅伝を利用できなくても、交易路の安全はモンゴルによって守られていますから、商人は安全に遠隔交易をすることが可能で、ムスリム商人と呼ばれるイスラム教徒の商人達が特に活躍します。
安全な交通路を通ってヨーロッパからの外交使節もモンゴル帝国に赴きます。
ローマ教皇インノケンティウス4世から派遣されたプラノ・カルピニ。
フランス王ルイ9世もルブルクを派遣し、彼等の使命はイスラム教徒の勢力と対抗する為にモンゴルと同盟を結ぶことでした。
カルピニはグユク・ハーン、ルブルクはモンケ・ハーンの時代ですが、モンゴル側は同盟を結ぶ気持ち等、本来持ち合わせていない為、適当にあしらった様です。
ルブルクもカルピニもジャムチを利用してカラコルム迄往来しました。
ルブルクは、フランスを出発してロシアに向かいますが、当時、その地はもう遊牧の世界で、テントを張った人達が遊牧しています。
カルピニは、彼等にキプチャクの大ハーンの所に案内してもらい、そこで通行許可証、牌子の発行を受け、その後は一切の障害もなくカラコルム迄旅行できました。
興味深い点は、彼は旅の途中のオアシスやカラコルムで結構ヨーロッパ人に会っているのです。
モンゴルの遠征で捕虜となって連れてこられたのか否か、事情はわかりませんが、旅行記等を残さない職人や女性達が可也ユーラシア大陸を大移動していることがわかります。
又、モンゴルの宮廷にはキリスト教徒がいました。
古代ローマ帝国時代に異端とされたネストリウス派キリスト教が西アジアから中央アジアにかけて拡がっており、モンゴル王族の女性達にも信者が存在したのです。
ハーンの妻の中にも当然居り、モンゴル人は宗教に関しては余り神経質にならず、政府の批判や住民扇動等行わない限り自由に布教もさせていたようです。
フビライの時代に、ローマ教皇から宣教師モンテ・コルヴィノが派遣されるのですが、彼は大都で三十年間も布教しています。
そしてモンゴル時代の旅行者で一番有名な人物はマルコ=ポーロですが、詳しいお話は、別にしたいと思います。
彼の家系は、イタリアのヴェネツィア商人で、父親が遠隔貿易商人でした。
16歳で父と叔父に連れられて旅に出でて、中国に着き、フビライ・ハーンに会った時には20歳になっていました。
若くて賢く、フビライに気に入られ、元の役人として中国各地で17年間働きます。
最後にイタリアに帰国する時は、イル・ハン国に嫁ぐ王室のお姫様を中国から、南シナ海、インド洋を回って船で送り届ける役目を仰せつかっています。
イタリアに帰国後、都市間戦争で捕虜に成り収監されますが、牢の中の暇つぶしに同室の囚人ルスチケロに自分の体験を話すのですが、余りに面白い話なのでルスチケロはこれを書き留めて本にしました。
これが『東方見聞録』、『世界の記述』とも云います。
因みジパングの話ですが、黄金の国等、全く虚構で、マルコ=ポーロの本の中には明らかな間違いも結構あるのですが、権力中枢に居た者しか知り得ない情報も多々存在し、研究すればするほど実に不思議な本と云われています。
現在、研究者の中にはマルコ=ポーロは中国旅行と元朝での役人生活を否定し、マルコ・ポーロは実在せず、複数の旅行者の情報をマルコ・ポーロという名前に託して作り上げたのが『世界の記述』である、と説く説も存在しています。
蒼き狼の帝国:続く・・・

上都が存在した内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部の風景
◎モンゴル帝国と東西交流
フビライの大ハーン即位に反対して、オゴタイの孫に当たるハイドゥが反乱(1266年~1301年)を起こしていますが、この事件はモンゴル帝国分裂の象徴的出来事でしたが、実際には大きな戦闘は一度しかなかったといいます。
処でフビライは、チンギス・ハーンの一族の中では変わり者と見なされていました。
彼のどこが変わっているかと言えば、一言で中国寄りなのです。
代々、モンゴルの王侯達は中国文化には関心が薄く、イラン文化に代表される西方の文化に興味を持つことが普通でした。
ところが、フビライは長い間南宋攻略の為、彼の地に赴いていた結果、自然と中国人と接触する機会も多く、中国文化を好む様に成ったのでしょう。
大ハーン即位後、モンゴル帝国の首都をモンゴル高原のカラコルムから中国北部の大都(モンゴル名 Khān Bālīq / Qan-balïq:ハンバリーク・カンバリーク、現在の北京)に冬の都を建設し更に夏の都である上都(モンゴル名Shàngdū :ザナドゥ)を建設しました。
余談ですが、上都は、イギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジによって、1816年に『クブラ・カーン、あるいは夢で見た幻影:断片』として発表され、その中でザナドゥを取り上げました。
マルコポーロの「東方見聞録」とコールリッジの作品で、ヨーロッパ人は、上都に関する想像を抱いたと云います
更に、国号を元と中国風に改め、1279年には南宋を滅ぼして東アジア全域を支配下に入れました。
日本、ビルマ、ヴェトナム、ジャワや更に遠方に遠征軍を送り出しますが、これらは総て失敗に終わっています。
この様な遠征を行った意味は、モンゴルがそれまでに作り上げた陸上の連携に海上の連携を結びつけ様とする試みだったという説もあります。
フビライ以後、元は中国の王朝と成りました。
西はロシア、シリアから東は中国本土迄、ユーラシア大陸の大部分を支配し、モンゴル帝国は歴史上空前絶後の領土を持つ国家に成長しました。
ユーラシア大陸全体が、一つの国家に成った為、戦争行為は消滅しこれを「タタールの平和」と呼びます。
此処でタタールとはモンゴルを意味しています。
モンゴル帝国は東西交易路の安全を確保する為に、駅伝制を整備し、この駅伝のことをモンゴルではジャムチと云い、モンゴル政府発行の通行証が牌子(はいず)で、この通行証を持っていれば街道沿いにある宿駅で宿泊し、馬を交換等と便宜を受けながら旅をすることができました。
駅伝を利用できなくても、交易路の安全はモンゴルによって守られていますから、商人は安全に遠隔交易をすることが可能で、ムスリム商人と呼ばれるイスラム教徒の商人達が特に活躍します。
安全な交通路を通ってヨーロッパからの外交使節もモンゴル帝国に赴きます。
ローマ教皇インノケンティウス4世から派遣されたプラノ・カルピニ。
フランス王ルイ9世もルブルクを派遣し、彼等の使命はイスラム教徒の勢力と対抗する為にモンゴルと同盟を結ぶことでした。
カルピニはグユク・ハーン、ルブルクはモンケ・ハーンの時代ですが、モンゴル側は同盟を結ぶ気持ち等、本来持ち合わせていない為、適当にあしらった様です。
ルブルクもカルピニもジャムチを利用してカラコルム迄往来しました。
ルブルクは、フランスを出発してロシアに向かいますが、当時、その地はもう遊牧の世界で、テントを張った人達が遊牧しています。
カルピニは、彼等にキプチャクの大ハーンの所に案内してもらい、そこで通行許可証、牌子の発行を受け、その後は一切の障害もなくカラコルム迄旅行できました。
興味深い点は、彼は旅の途中のオアシスやカラコルムで結構ヨーロッパ人に会っているのです。
モンゴルの遠征で捕虜となって連れてこられたのか否か、事情はわかりませんが、旅行記等を残さない職人や女性達が可也ユーラシア大陸を大移動していることがわかります。
又、モンゴルの宮廷にはキリスト教徒がいました。
古代ローマ帝国時代に異端とされたネストリウス派キリスト教が西アジアから中央アジアにかけて拡がっており、モンゴル王族の女性達にも信者が存在したのです。
ハーンの妻の中にも当然居り、モンゴル人は宗教に関しては余り神経質にならず、政府の批判や住民扇動等行わない限り自由に布教もさせていたようです。
フビライの時代に、ローマ教皇から宣教師モンテ・コルヴィノが派遣されるのですが、彼は大都で三十年間も布教しています。
そしてモンゴル時代の旅行者で一番有名な人物はマルコ=ポーロですが、詳しいお話は、別にしたいと思います。
彼の家系は、イタリアのヴェネツィア商人で、父親が遠隔貿易商人でした。
16歳で父と叔父に連れられて旅に出でて、中国に着き、フビライ・ハーンに会った時には20歳になっていました。
若くて賢く、フビライに気に入られ、元の役人として中国各地で17年間働きます。
最後にイタリアに帰国する時は、イル・ハン国に嫁ぐ王室のお姫様を中国から、南シナ海、インド洋を回って船で送り届ける役目を仰せつかっています。
イタリアに帰国後、都市間戦争で捕虜に成り収監されますが、牢の中の暇つぶしに同室の囚人ルスチケロに自分の体験を話すのですが、余りに面白い話なのでルスチケロはこれを書き留めて本にしました。
これが『東方見聞録』、『世界の記述』とも云います。
因みジパングの話ですが、黄金の国等、全く虚構で、マルコ=ポーロの本の中には明らかな間違いも結構あるのですが、権力中枢に居た者しか知り得ない情報も多々存在し、研究すればするほど実に不思議な本と云われています。
現在、研究者の中にはマルコ=ポーロは中国旅行と元朝での役人生活を否定し、マルコ・ポーロは実在せず、複数の旅行者の情報をマルコ・ポーロという名前に託して作り上げたのが『世界の記述』である、と説く説も存在しています。
蒼き狼の帝国:続く・・・
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