2013/09/13

歴史のお話その209:蒼き狼の帝国・番外編③

<蒙古来襲>

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 文永11年10月20日(太陽暦11月19日)、日本は記録上初めて、異国の侵略を受けました。
「文永の役」、いわゆる元寇です。
博多の湾内は、前日から蒙古の軍船で埋まり、その数900隻余り、既に対馬、壱岐を攻略し、その守備軍を全滅させ、今当に九州本土に達したのでした。

 蒙古は国号を「元」と称し、中国北部を領土として、朝鮮半島も完全に制圧され、高麗は属国となり、日本もその勢力下に置こうとしていました。
中国や高麗から徴兵された将兵の数、28000人、その他高麗が、供与した水夫は6800人に上ります。

 夜が明けると、蒙古軍は博多湾の西方に上陸を開始し、人馬供に大集団を成し、ときの声を上げ、日本側に襲い掛かります。
日本軍は、其れまでの戦いと全く異なる戦法(一騎打ちに対する集団戦法)に苦戦を強いられ、善戦はしたものの、じりじりと後方に押され、夕方には、博多の本陣も突破され、総崩れとなり南に向かって退きます。
 大宰府の守備を固めて、改めて蒙古軍を食い止める戦法をとりました。
蒙古軍は、博多の町を席捲して、箱崎方向(東向き)に軍を進め、町には火が放たれます。
この日は、朝から曇り空でしたが、夕方から雨となり、南へ退いた人々は、遥かに望む猛火を見て、降りしきる雨に涙を流しました。

 恐ろしい一夜が明けると、蒙古軍の姿が無い!
海には、軍船の姿も無く、町には、兵の姿も無く、僅かに、志賀島の砂州に一隻が、打ち上げられています。
蒙古軍は、昨夜の内に退去していたのでした。
昨晩は、大風が吹き、そん為に蒙古軍の大船団は姿を消したのでしょうか?
奇跡でした。

 歴史書には「一夜の大風雨によって、敵船の大半は転覆した」と記述され、7年後の「弘安の役」(1281年)の時も、台風によって蒙古軍は、敗退したというのが、従来の定説、通説でした。
近年「文永の役を終結させたのは、台風ではない」との見解が発表されますが、事実10月下旬に北部九州に到来する台風は有りません。
又、信頼すべき資料、文献に台風の来襲を明示したものが無い事から、蒙古軍は予定して退却したのだと考えられるとしたものが、新設の根拠に成っています。

 この日の戦闘を有利に展開していた、蒙古軍は、なぜ撤退したのでしょう?
元の記録によれば「軍が整わず、又矢も尽きた為」と在り、更に「疲れた兵を持って、大敵と戦う事は不利」と判断した為でした。
蒙古軍は、作戦を中止して、撤退したのですが、確かにその夜、大風が吹きました。
高麗の記録や、京都における公家の日記でも、はっきりと「大風雨」又は。「逆風」が在った事が記されていて、疑う余地は無く、台風では無いにしても、蒙古軍の船団は、この気象状況によって大損害を受け、溺死する者が多数に及び、高麗では、未帰還者の数を13000余人と記しています。

 一日の戦闘に28000人の全軍が上陸していたとは、作戦上からも考え難く、上陸作戦の常識でも実際に上陸したのは、10000人程度と思われます。
従って、犠牲者の大半は、風による遭難で在り、過半数の軍勢は続いて上陸すべ船内に待機していたはずです。
しかも一帯の占領も行う事無く撤退した事は、日本側の抵抗の強さに圧倒された為かも知れません。
もし、翌日も新手を繰り出して、作戦を継続しておれば、恐らく大宰府迄突破され、現在の福岡市一帯は、大損害を被ったに違い有りません。

 蒙古軍はなぜ撤退したのか?としての疑問は依然として残る訳ですが、推察すると、騎馬戦、陸上戦に長じた蒙古軍も、海を越えての作戦は、不利で在ったと思われ、日本への遠征は2度試みられて、供に失敗し、後にはジャワ遠征(1291~1292)も又失敗し、ベトナムに対する遠征(1284年)も暴風雨による大損害を免れませんでした。

蒼き狼の帝国・番外編:続く・・・


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