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2013/09/14

歴史のお話その210:蒼き狼の帝国・番外編④

<マルコ・ポーロの旅>

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 やっと20代に成ったばかりの青年にとって、それは思わず息を飲む光景でした。
其れまでに見た、如何なる都市よりも壮麗でした。
青年は、是ほど美しい都会に住んでいる人達は、天国で暮らしている様な気持ちではないかと、考えたのです。
美しく整備された街路、公園、港、運河が在り、運河には、アーチ橋が何本も掛り、その多くは大変高く、帆柱を立てた船が、その下を通る事が出来、下水道設備、警察、消防、郵便も在ったのです。

 700年前のこの青年の名前は、史上最も偉大な旅行家の一人、マルコ・ポーロです。
そしてこの大都会、杭州は中国の多くある都会の一つに過ぎませんでした。
マルコ・ポーロはその日誌に、杭州が世界中の如何なる都市よりも素晴らしいと書き、彼の意見では、首都の大都(北京)や、彼の故郷ベネチアと比較してさえ、更に美しい都だったと言います。

 マルコ・ポーロの一族は、世界中を広く旅行しており、父ニコロと叔父マティオは、既に当時の中国を訪問していました。
二人がベネチアに帰る時、皇帝は二人に、又戻ってくると約束させ、二人はこの約束を1272年に実行しましたが、この時に、当時17歳だったマルコを同行させたのでした。

 この旅行は、3年もの日数を要する、困難を極めたものでした。
一行は、まず船でトルコ南東部の港、アヤスルに着き、この町でキャラバンを組んで、アジアを横断する旅に出発したのでした。
彼らの隊商路は、現在のイラン、アフガニスタンを通過し、パミール高原を越え、天山南路を進み、ゴビ砂漠を横断して、中国(当時:元朝)に至り、1275年5月、終にフビライ汗のもとに到着したのでした。
この時、皇帝は万里の長城の北に在る、夏の宮殿に居ましたが、その秋、マルコ・ポーロ一行も皇帝と一緒に冬の都、北京に戻りました。

 マルコ・ポーロは、凍った山を登り、豪雨、砂嵐、洪水、雪崩に悪戦苦闘した、長い旅の記録を残しています。
アフガニスタンでは、マルコ自身が病気になり、まる1年足止めされ、盗賊の出没する地域や紛争の起こった地域を避け、幾度もコースを変更し、計画を練り直した事が、詳細に認められています。

◎驚異の旅

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 彼は後に、彼らが見聞した驚くべき光景や、出会った風変わりな人々について書き残しました。
彼は、「火を点けると、木炭の様に燃え、可也の熱を発する黒い石の鉱脈(石炭)」に驚き、「地中から噴出し、ランプの火を燃やす事に使用する物質(石油)」も見て、「紡いで糸にし、織って布にする事が出来、火中に投じても燃えない布(石綿)」を試しています。
ワニの事を「長さが10歩(約7.6m)の巨大なヘビで、その顎は人間を飲み込めるほど大きい」と説明し、ヤクは、「象に匹敵する野牛」と書き、ココナッツは「人間の頭位の大きさで、味が良く、ミルクの様に白い」と書き残しました。

 皇帝は、この若い客に非常な感銘を受け、象に乗って、狩にも同行させ、豪華な宮殿や夏の避暑先(上都)に、自由に出入する事を許したのでした。
マルコは、金色に輝く彫刻や、美術品、皇帝を取巻く優雅な廷臣達に感嘆しています。
彼の記録に因れば、100人或はそれ以上の美しい側室を探し、皇帝の後宮に入れる為、特使が2年に1度、帝国の各地に派遣されたと云います。

 マルコ・ポーロは、中国とその近隣諸国についても記録を残した最初のヨーロッパ人です。
アジア大陸を横断するルートについて語ったのも、太平洋を見たのも、ヨーロッパ人では彼が最初と言う事が出来ます。

 彼の父と叔父は、交易で巨万の富を得ましたが、マルコは17年間皇帝の為に働き、皇帝は彼を皇帝自身の特使として、帝国の各地に送りました。
この時、彼はベトナム、ビルマ、チベットを訪問し、後に3年間、楊州を治め、その管轄した都市は24に及んだと云います。

 しかし、この時皇帝フビライ汗は、既に70歳を越しており、皇帝が崩御すれば、どの後継者が後を継いでもマルコ達の身が安全である保証は有りませんでした。
1292年、彼らは、皇帝の命を受け、特別に仕立てた船で泉州を出帆します。
そして、ほぼ25年ぶりに、彼らが故郷ベネチアに帰り着いた時、本人達が生きて帰ったと信じてくれた人物は、一人も居ませんでした。

 自分達が決して、ペテン師で無い事を納得させる為、3人は宴席を設け、まだ疑わしそうな眼差しを向ける客達の前に、旅でぼろぼろに成った、ダッタンの衣装を見せ、その縫い目を切ると、煌めく宝石が滝の様にこぼれ落ちました。
是は、彼らの話が真実である事を証明する、絶対の決め手と考えられ、中国の皇帝以外にこの様に多量の財宝を与える事が出来る者が存在するはずがない、と当時の人々は信じていたからでした。

 だが、もし戦争が起こらなければ、マルコ・ポーロの旅が、世界に知られる事は無かったでしょう。
彼らがベニチアに帰還してから3年後、ベネチアは商業上の競争相手である、ジェノバと衝突します。
ガレー船の指揮を取っていた、マルコは捕虜となり、ジェノバの監獄に収監されました。
其処で、マルコは時間を賢明に使ったのです。
皇帝の為に書き留めておいた記録を使って、記憶を呼び覚ましながら、仲間の囚人に思い出話を書き取らせたのです。
こうして、彼の旅行記「東方見聞録」が完成したのですが、この記録が書物として出版されると、嘘の固まりであるとさんざん非難されました。

 1324年、彼が死の床についた時でさえ、或る司祭は彼に、ホラ話を取り消す様に勧めましたが、最後の息の下で彼はこの様に語ったと伝えられています。
「私は、自分の見た事の半分しか、まだ話してはいない」と。

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蒼き狼の帝国・番外編:終わり・・・
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コメント

非公開コメント

こんばんは

石炭、石油も知らなかったとなると、マルコの旅は驚きの連続だったことでしょう。
ワニなどはどれほどの怪物に映ったことでしょう。
それらの話が信じられなかったのは、気の毒です。