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2013/10/01

歴史のお話その223:語り継がれる伝説、伝承、物語⑫

<革命を呼んだネックレス>

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 歴史上で最も厚かましい、取り込み詐欺が始まったのは、1772年の事でした。
発端は、老王ルイ15世の愛人デュバリー夫人が、世界一高価なダイヤモンドを愛欲に目の眩んだ国王に強請った事でした。

 ルイ15世は彼女の言いなりでしたから、王室御用達の宝石商ベーメルに、ヨーロッパ中を探して、最も高価なダイヤを持参するように命じたのでした。
ベーメルは張り切ります。
彼は600個のダイヤを買い、そのダイヤを用いてネックレスに仕立てました。
こうして200万リーブル(現在の価格で700万ドル、6億3千万円)という、価格の面でも、見かけの悪さでも、目を剥く様な装飾品が完成したのでした。

 ベーメルは意気揚々と、ベルサイユ宮殿からの呼び出しを待っていました。
しかし、タイミング悪くルイ15世は、天然痘で崩御し、破産の危機が宝石商に迫っていました。
新王ルイ16世も、20歳に王妃マリー・アントワネットも、「スカーフの様な」外観のネックレスをひどく嫌っていたのです。

 ベーメルは、何年間もベルサイユに参内し、王妃に子供が生まれる度に、彼女が気まぐれを起こして、子供の洗礼用にと、ネックレスを購入してくれる様にと儚い望みを抱いていました。
しかし、王妃は1度も気まぐれ等、起こしませんでした。

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◎枢機卿と伯爵婦人

 マリー・アントワネットがそのネックレスよりも嫌っていたものは、少女時代の彼女の母、オーストリア女王の宮廷にフランス大使として駐在していたド・ロアン枢機卿でした。
彼女の嫌いなこの二つは、背俗臭が強く、不道徳と云う点で共通していました。
ド・ロアンの情事は、ヨーロッパに於いて知らない者は、まず居ませんでしたが、廷臣であると同時に教会の権力者として、彼は賄賂で私腹を肥やし、其れを殆んど愛人の為に費やし、王妃に嫌われている事を本人は、十分承知していたので、彼は王妃のご機嫌取りに懸命でした。

 自称伯爵夫人のジャンヌ・ド・ラ・モットが物語りに登場するのは、この時からで、彼女は旧姓をジャンヌ・ド・サンレミと云い、古いフランス王家バロア家の直系子孫とも云われていました。
夫のド・ラ・モット伯爵は一文無しの陸軍将校で、伯爵の称号が得られたのは、ひとえに女房の血筋のお陰でした。

 ジャンヌは、人を説いて如何なる事でも、信じさせてしまう不思議な能力が在ったと云い、彼女は王妃に影響力が在り、従ってド・ロアン枢機卿に対する王家の不興を解く力があると、あらゆる手段を用いて枢機卿に信じさせようと努めました。
物腰の柔らかなその説得は、数ヶ月間も続き、共犯者を使って王妃の筆跡を真似た手紙を何通も偽造し、マリー・アントワネットが枢機卿に対して、心を和らげたと見せかけました。

 其れから彼女は、愈々大仕事に取り掛かります。
マリー・アントワネットに良く似た少女を見つけ出し、枢機卿と偽王妃を、ベルサイユ宮殿内の暗い木立で、深夜に引き合わせる手はずを整えました。

 ド・ロアン枢機卿が見たのは、王妃と同じ背丈と体つきのシルエットだけでしたが、彼が跪いて敬礼すると、彼女は1輪のバラをその手に渡し、身を翻して闇の中に消えました。
枢機卿は狂気しました。
王妃は彼を許したばかりか、明らかに彼を愛してさえいたのでした。
その為、彼女の為にネックレスを買い取って欲しいと云う手紙を受け取った時、彼は喜んで承諾しました。
当然、買い上げは秘密にしなければならず、只一人の仲介人は王妃の信頼する、親友ド・ラ・モット伯爵夫人以外に在りませんでした。

 枢機卿はネックレスを買い、ジャンヌに手渡しました。
ジャンヌの夫は其れを持って、直ぐにロンドンに渡り、その地でネックレスを分解して、宝石商に売り飛ばします。
伯爵は賢明にもイギリスに残りましたが、ジャンヌはパリに住み続け、夫が送って遣した金で、自分の情夫たちを持成したのでした。

◎王妃の激怒

 枢機卿が勇気を奮い起こして、何故ネックレスを身に着けられないのかと、王妃に尋ねる迄に6ヶ月の期間を要しました。
当然の事ながら、マリー・アントワネットは激怒します。
事件は議会の知る事と成り、ジャンヌは有罪と成って「ボルーズ(泥棒)」を意味するVの烙印を押され投獄されました。

 事件は落着したかに思われましたが、民衆の間に嵐を呼びます。
マリー・アントワネットは民衆の人望を失っており、枢機卿を彼女の愛人で、彼女はフランスの人民が飢えているにも関わらず、高価な贈り物を要求したと、大衆は容易に信じたのです。
暴動が勃発し、無実の生贄と見なされたジャンヌは、イギリスに逃れ、自分の無実を主張する手紙を新聞に公表しました。

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◎二人の女性の死

 ネックレスの事件は、疑いなくフランス革命の導火線に成りました。
1793年、マリー・アントワネットは革命裁判に引き出された時、ジャンヌとの関係も尋問されました。
王妃は彼女に会った事は、一度も無いと抗弁しましたが、その声は怒号にかき消され、大衆の人望を失った王妃は、断頭台の露と消え、ジャンヌはその2年前、ロンドンで客死していました。
債権者から逃れる為に、エッジウェア・ロードの宿の窓から転落したのでした。

続く・・・

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