歴史のお話その225:語り継がれる伝説、伝承、物語⑭
<ルードヴィッヒ二世その②>

◎ノイシュヴァンシュタイン城:Neuschwanstein
中世の騎士に強い憧れを抱いた孤高のバイエルン王ルードヴィッヒ二世の夢の凝縮した絢爛豪華なおとぎの城。
ドイツ南部・バイエルン州の南方、森に囲まれたホーエンシュヴァンガウに建設され、緑豊かな自然の景観の中に溶け込んだ白亜の城のシルエットは溜息が出るほどの美しさ。
バロック、ゴシック、ルネサンスなどあらゆる建築様式を取り入れられ、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなり、ロマンチック街道の終点フュッセンの近くにあり、ヨーロッパでも有数の観光地です。
ルードヴィッヒ二世は、即位から4年目の1868年に新しい城の築城を命じ、その新しい城の構想は、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした幼年期に傾倒を深めた、中世の騎士道の伝統に沿って、ルートヴィッヒの頭の中に生み出されたものでした。
其れにふさわしい場所としてルートヴィヒが選んだのは、生まれ育ったホーエンシュヴァンガウ城を目の前に臨む岩山の上でした。
ホーエンシュヴァンガウ城は、ルートヴィヒの父マクシミリアン2世が1830年代に再建したものでしたが、ルートヴィヒが新しく城の建築を考えたのは、まさに再建される前のホーエンシュヴァンガウ城があった場所でした。
その岩山に1869年9月、新たなルートヴィヒの城の建設が始められました。
初めに王宮建築主任のエドゥアルト・リ-デルに城の建築が任されましたが、実際に城全体の設計を行うよう指名されたのは宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していたミュンヘンの画家クリスティアーン・ヤンクでした。
この城はメルヘン王ルートヴィヒの夢の実現の為に作られたものなので、城全体が建築としてよりも一つの物語の舞台としてみなされ、徹底的に王の追い求めるメルヘンの世界を作り出すことが優先されました。
従って、本来王城の中心となる聖堂や礼拝堂、玉座を後回しにしても人工の洞窟を造るといった具合で、王自身が納得いくまで何回も変更を加えました。
そして、ノイシュヴァンシュタイン城は、元々、ルートヴィヒ2世が敬愛するリヒャルト・ワーグナーに捧げる殿堂として造られ、ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」「ローエングリン」などの世界が描き出されました。
城の建築には何百人もの職人が従事していましたが、この時代には革新的な社会制度もあったそうです。
建設従事者が病気や傷害で働けなくても賃金を保証する「職人協会」が存在し、王自身が多額の援助をしていました。
ルートヴィヒは多額の建築資金を王室費などの私財をつぎ込んで調達しましたが、それでは十分ではなく、多額の借金をしました。
ノイシュヴァンシュタイン城の建築には約620万マルクかかった事が記録されていますが、物価などを考慮して算出すると現在の250億円程の金額に相当します。
建築熱にとりつかれたルートヴィッヒは、ノイシュヴァンシュタイン城の建築中にリンダーホーフ城とヘレンキムゼー城の建築も始め、それらを合わせると膨大な費用になり、お金に頓着のないルートヴィッヒは次から次に多額の借金をしていきました。
ルードヴィッヒ二世は若い頃は国政に対する意欲もありましたが、次第に政治的にも孤立し、心の拠り所だったワーグナーもこの世を去ると、極度の人間嫌いになって何より孤独を好むように成りました。
数人の侍従以外は人を寄せ付けず、空想の世界に閉じこもり、ホーエンシュヴァンガウ城から建設中のノイシュヴァンシュタイン城を見上げ、その完成を心待ちにしました。
1880年頃には城の主な部分の建設が終わりましたが、ようやく実際に住める状態になったのは1884年頃でした。そして、城はまだ工事中だったにもかかわらず、1884年5月から6月にかけて13日間、ルートヴィヒ2世が最初の滞在をしたとされています。
それから 2年後の1886年、ルードヴィッヒ二世は失意の中、退位を余儀なくされ、謎の死を遂げましたが、その間にこの城滞在したのは計172日だと云われており、そして、王の死後もノイシュヴァンシュタイン城の工事は続けられ、工事がすべて終了したのは1892年のことでした。
注目すべきは、城は工事中だったにもかかわらず、1886年8月にはすでに城は一般公開されたという事です。
王の死から数週間後の事で、入場料は当時の生活水準からするとかなり高価だったようですが、それでも公開後半年で1万8千人もの見学者が訪れました。
やはり、現実の世界とかけ離れたメルヘン王ルートヴィヒの夢の城は、当時の人々にとっても一度は訪問してみたい夢の世界なのでした。

◎ウィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー
1813年5月22日ライプチヒに生まれました。ウェーバーの「魔弾の射手」とベートーヴェンの 「第9交響曲」 を聴いて感動し作曲家となることを決意します。
1842年、ドイツのドレスデン宮廷歌劇場で自作のオペラ「リエンツィ」を初演し、大成功を収め、この成功により宮廷楽長となったワーグナーは、ロマン的オペラ「タンホイザー」や「ローエングリン」を完成させますが、 1849年にドレスデン蜂起に荷担して逮捕状を発せられ、スイスに亡命を余儀なくされます。
このスイス亡命時代に総合芸術論「オペラとドラマ」と「ニーベルングの指輪」四部作を書きあげ、ロマン的オペラから楽劇への決定的一歩を踏み出しました。亡命時代を経て、1860年からはヨーロッパを演奏旅行します。このときリストの娘で指揮者ビューローの妻コジマと恋愛関係になります。
経済的困窮は極まるばかりでしたが、 64年バイエルン国王ルードヴィッヒ二世の強力な援助を受け、作曲に没頭し、70年にはコジマと正式に結婚、その後自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を建て、念願の「ニーベルングの指輪」四部作などを上演していきました。
その後「パルジファル」 を完成してバイロイトで初演しますが、翌年83年2月13日、ヴェネツィアにおいて心臓発作に襲われ息を引き取りました。
ワーグナーの芸術は、作品の規模の大きさばかりでなく、土台となっている知識の広さによっても特徴づけられます。
彼は自分で舞台作品の台本を書きましたが、そこでは一般にいわれるゲルマン神話ばかりでなく、ギリシア神話をはじめとして、シェークスピア劇などありとあらゆる世界文学が下敷きとなっています。
そうした台本がそのまま作曲上の試みとして音楽に移し変えられているところに彼の作品の特徴があるといえます。

◎バイエルン王国の歴史
現在ドイツ連邦共和国を構成している16州の中で、最大の面積をもつバイエルン州は、神聖ローマ帝国を構成するひとつの公国として1180年からヴィッテルスバッハ家という一族が治めてきました。
1806年から王国に昇格し、1918年迄バイエルン王国(Königreich Bayern/ケーニックライヒ バイエルン)と呼ばれていました。
ヴィッテルスバッハ家(Wittelsbach)は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系、バイエルンの君主の家系として有名ですが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いており、又神聖ローマ皇帝やボヘミア王、ハンガリー王、ギリシャ王も一族から輩出しています。
1329年以降はバイエルン系とプファルツ系に分かれ、分割統治と成りますが、1777年バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが世継ぎを残さず崩御した為、バイエルン系は断絶してしまいます。
そこで遠戚でプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールが、バイエルン選帝侯も継承することにより、再統合されました。(バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール)
しかし、カールも世継ぎがないまま1799年崩御したため、その遠戚にあたるマクシミリアンがバイエルン及びプファルツ両選帝侯を継ぐことになりました。(バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世ヨーゼフ)
1800年のナポレオンの侵攻により神聖ローマ帝国が崩壊すると、選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフは、ナポレオンの承認を得て近隣の領土を併合した上で、ライン同盟に加盟、バイエルン王国を興し、1806年1月1日、自らマクシミリアン1世として即位しました。
バイエルン王国は、ライン同盟に加盟していた王侯国々の中でも最も重要な国で、ナポレオンとの同盟をライプツィヒの戦いの直前まで維持しましたが、オーストリア帝国に地位と領土が保証された事で反ナポレオン側に回り、1815年には一時手放していた旧ライン・プファルツ選帝侯国を回収・併合した後、ライン同盟を脱退し、ドイツ連邦に参加しました。
1871年1月18日、プロイセンのホーエンツォレルン朝のドイツ帝国が成立する際にも、バイエルン王国は維持したまま、帝国の一領邦となりました。
1918年、ドイツが第一次世界大戦で敗北すると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世はオランダ亡命し、ドイツ帝国は11月9日をもって崩壊しました。
バイエルン王国も混乱に陥り、11月13日、国王ルートヴィヒ3世が退位・亡命し、バイエルン王国も終焉を迎えます。
王権を手放し、共和制のドイツの一州となったバイエルンで、ヴィッテルスバッハの家系は現在も続いています。
続く・・・

◎ノイシュヴァンシュタイン城:Neuschwanstein
中世の騎士に強い憧れを抱いた孤高のバイエルン王ルードヴィッヒ二世の夢の凝縮した絢爛豪華なおとぎの城。
ドイツ南部・バイエルン州の南方、森に囲まれたホーエンシュヴァンガウに建設され、緑豊かな自然の景観の中に溶け込んだ白亜の城のシルエットは溜息が出るほどの美しさ。
バロック、ゴシック、ルネサンスなどあらゆる建築様式を取り入れられ、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなり、ロマンチック街道の終点フュッセンの近くにあり、ヨーロッパでも有数の観光地です。
ルードヴィッヒ二世は、即位から4年目の1868年に新しい城の築城を命じ、その新しい城の構想は、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした幼年期に傾倒を深めた、中世の騎士道の伝統に沿って、ルートヴィッヒの頭の中に生み出されたものでした。
其れにふさわしい場所としてルートヴィヒが選んだのは、生まれ育ったホーエンシュヴァンガウ城を目の前に臨む岩山の上でした。
ホーエンシュヴァンガウ城は、ルートヴィヒの父マクシミリアン2世が1830年代に再建したものでしたが、ルートヴィヒが新しく城の建築を考えたのは、まさに再建される前のホーエンシュヴァンガウ城があった場所でした。
その岩山に1869年9月、新たなルートヴィヒの城の建設が始められました。
初めに王宮建築主任のエドゥアルト・リ-デルに城の建築が任されましたが、実際に城全体の設計を行うよう指名されたのは宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していたミュンヘンの画家クリスティアーン・ヤンクでした。
この城はメルヘン王ルートヴィヒの夢の実現の為に作られたものなので、城全体が建築としてよりも一つの物語の舞台としてみなされ、徹底的に王の追い求めるメルヘンの世界を作り出すことが優先されました。
従って、本来王城の中心となる聖堂や礼拝堂、玉座を後回しにしても人工の洞窟を造るといった具合で、王自身が納得いくまで何回も変更を加えました。
そして、ノイシュヴァンシュタイン城は、元々、ルートヴィヒ2世が敬愛するリヒャルト・ワーグナーに捧げる殿堂として造られ、ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」「ローエングリン」などの世界が描き出されました。
城の建築には何百人もの職人が従事していましたが、この時代には革新的な社会制度もあったそうです。
建設従事者が病気や傷害で働けなくても賃金を保証する「職人協会」が存在し、王自身が多額の援助をしていました。
ルートヴィヒは多額の建築資金を王室費などの私財をつぎ込んで調達しましたが、それでは十分ではなく、多額の借金をしました。
ノイシュヴァンシュタイン城の建築には約620万マルクかかった事が記録されていますが、物価などを考慮して算出すると現在の250億円程の金額に相当します。
建築熱にとりつかれたルートヴィッヒは、ノイシュヴァンシュタイン城の建築中にリンダーホーフ城とヘレンキムゼー城の建築も始め、それらを合わせると膨大な費用になり、お金に頓着のないルートヴィッヒは次から次に多額の借金をしていきました。
ルードヴィッヒ二世は若い頃は国政に対する意欲もありましたが、次第に政治的にも孤立し、心の拠り所だったワーグナーもこの世を去ると、極度の人間嫌いになって何より孤独を好むように成りました。
数人の侍従以外は人を寄せ付けず、空想の世界に閉じこもり、ホーエンシュヴァンガウ城から建設中のノイシュヴァンシュタイン城を見上げ、その完成を心待ちにしました。
1880年頃には城の主な部分の建設が終わりましたが、ようやく実際に住める状態になったのは1884年頃でした。そして、城はまだ工事中だったにもかかわらず、1884年5月から6月にかけて13日間、ルートヴィヒ2世が最初の滞在をしたとされています。
それから 2年後の1886年、ルードヴィッヒ二世は失意の中、退位を余儀なくされ、謎の死を遂げましたが、その間にこの城滞在したのは計172日だと云われており、そして、王の死後もノイシュヴァンシュタイン城の工事は続けられ、工事がすべて終了したのは1892年のことでした。
注目すべきは、城は工事中だったにもかかわらず、1886年8月にはすでに城は一般公開されたという事です。
王の死から数週間後の事で、入場料は当時の生活水準からするとかなり高価だったようですが、それでも公開後半年で1万8千人もの見学者が訪れました。
やはり、現実の世界とかけ離れたメルヘン王ルートヴィヒの夢の城は、当時の人々にとっても一度は訪問してみたい夢の世界なのでした。

◎ウィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー
1813年5月22日ライプチヒに生まれました。ウェーバーの「魔弾の射手」とベートーヴェンの 「第9交響曲」 を聴いて感動し作曲家となることを決意します。
1842年、ドイツのドレスデン宮廷歌劇場で自作のオペラ「リエンツィ」を初演し、大成功を収め、この成功により宮廷楽長となったワーグナーは、ロマン的オペラ「タンホイザー」や「ローエングリン」を完成させますが、 1849年にドレスデン蜂起に荷担して逮捕状を発せられ、スイスに亡命を余儀なくされます。
このスイス亡命時代に総合芸術論「オペラとドラマ」と「ニーベルングの指輪」四部作を書きあげ、ロマン的オペラから楽劇への決定的一歩を踏み出しました。亡命時代を経て、1860年からはヨーロッパを演奏旅行します。このときリストの娘で指揮者ビューローの妻コジマと恋愛関係になります。
経済的困窮は極まるばかりでしたが、 64年バイエルン国王ルードヴィッヒ二世の強力な援助を受け、作曲に没頭し、70年にはコジマと正式に結婚、その後自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を建て、念願の「ニーベルングの指輪」四部作などを上演していきました。
その後「パルジファル」 を完成してバイロイトで初演しますが、翌年83年2月13日、ヴェネツィアにおいて心臓発作に襲われ息を引き取りました。
ワーグナーの芸術は、作品の規模の大きさばかりでなく、土台となっている知識の広さによっても特徴づけられます。
彼は自分で舞台作品の台本を書きましたが、そこでは一般にいわれるゲルマン神話ばかりでなく、ギリシア神話をはじめとして、シェークスピア劇などありとあらゆる世界文学が下敷きとなっています。
そうした台本がそのまま作曲上の試みとして音楽に移し変えられているところに彼の作品の特徴があるといえます。

◎バイエルン王国の歴史
現在ドイツ連邦共和国を構成している16州の中で、最大の面積をもつバイエルン州は、神聖ローマ帝国を構成するひとつの公国として1180年からヴィッテルスバッハ家という一族が治めてきました。
1806年から王国に昇格し、1918年迄バイエルン王国(Königreich Bayern/ケーニックライヒ バイエルン)と呼ばれていました。
ヴィッテルスバッハ家(Wittelsbach)は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系、バイエルンの君主の家系として有名ですが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いており、又神聖ローマ皇帝やボヘミア王、ハンガリー王、ギリシャ王も一族から輩出しています。
1329年以降はバイエルン系とプファルツ系に分かれ、分割統治と成りますが、1777年バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが世継ぎを残さず崩御した為、バイエルン系は断絶してしまいます。
そこで遠戚でプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールが、バイエルン選帝侯も継承することにより、再統合されました。(バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール)
しかし、カールも世継ぎがないまま1799年崩御したため、その遠戚にあたるマクシミリアンがバイエルン及びプファルツ両選帝侯を継ぐことになりました。(バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世ヨーゼフ)
1800年のナポレオンの侵攻により神聖ローマ帝国が崩壊すると、選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフは、ナポレオンの承認を得て近隣の領土を併合した上で、ライン同盟に加盟、バイエルン王国を興し、1806年1月1日、自らマクシミリアン1世として即位しました。
バイエルン王国は、ライン同盟に加盟していた王侯国々の中でも最も重要な国で、ナポレオンとの同盟をライプツィヒの戦いの直前まで維持しましたが、オーストリア帝国に地位と領土が保証された事で反ナポレオン側に回り、1815年には一時手放していた旧ライン・プファルツ選帝侯国を回収・併合した後、ライン同盟を脱退し、ドイツ連邦に参加しました。
1871年1月18日、プロイセンのホーエンツォレルン朝のドイツ帝国が成立する際にも、バイエルン王国は維持したまま、帝国の一領邦となりました。
1918年、ドイツが第一次世界大戦で敗北すると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世はオランダ亡命し、ドイツ帝国は11月9日をもって崩壊しました。
バイエルン王国も混乱に陥り、11月13日、国王ルートヴィヒ3世が退位・亡命し、バイエルン王国も終焉を迎えます。
王権を手放し、共和制のドイツの一州となったバイエルンで、ヴィッテルスバッハの家系は現在も続いています。
続く・・・
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コメント
ルードヴィッヒ二世は昼間寝て夜になるとう活動するそうでしたね。
この城を作って財産が破綻したと言われていますが実際はそうではなかったみたいです。
2013-10-04 09:39 purotoko URL 編集