2013/10/07

歴史のお話その228:語り継がれる伝説、伝承、物語⑰

<ロンドン搭の二王子>

princes in the tower

 17世紀末にロンドン搭の階段の下で、少年の遺骨が2体発見された時、古い伝説がようやく立証されたたかに見えました。
残忍な王リチャード三世は、幼い甥達を暗殺したこの上なく非常な叔父と、語り継がれています。
しかし、この伝説を誰かがによって、確証されている訳では有りません。
リチャードとロンドン搭に幽閉された王子殺しを描いた、シェークスピアの戯曲を通じて、王の悪名は広く知られる事となりました。

 しかし、ながら歴史家の一部には、もしリチャードを今日の裁判にかけたら、証拠不十分で不起訴になるという意見があります。
確かに新しい証拠によっては、事件は全く違った展開を見せる可能性もあるのです。

 1483年にエドワード四世が崩御した時、弟のリチャードは国王の摂政と成り、エドワードの王子達、幼い国王のエドワード五世とその弟、ヨーク公リチャードの後見人を任命されました。

 エドワード五世の載冠式の準備がロンドンで進められていた時、リチャードはノーザンプトン近くのストーニー・ストラトフォードに馬を走らせ、少年王をロンドン搭に連れ戻しました。
弟のヨーク公も母親の手でウエストミンスター寺院の内陣に匿われていましたが、程なく兄の居るロンドン搭に移されました。

 搭の中庭で兄弟の遊ぶ姿が、幾度か見かけられましてが、その後少年達は、公衆の面前から永遠に姿を消してしまいます。
トーマス・モアはリチャード三世伝の中で、彼が少年達を枕で窒息死させたと書き記しましたが、其れは30年以上後の噂話でしか有りません。

 リチャードが王子達を暗殺して、得をするような立場にあったかについて、確かな証拠は存在せず、父王の死後、僅か2ヶ月目に少年達はロンドン搭の説教師達から、正統な嫡子ではないと指弾されていました。
彼らの母親、エリザベス・ウッドビルと1464年に結婚する以前、エドワード四世はシュロウズベリー伯爵家の娘と婚約しており、当時、この様な正式の婚約には、結婚そのものと同様の拘束力が存在した為、王の結婚は法律的には無効でした。
つまり、合法的な王位継承者はリチャードだったのです。

 しかし、リチャードが少年達を暗殺したのでは無いとすれば、誰が手を下したのでしょうか?
少なくともそうする動機を持っていたのは、誰なのでしょう?
研究者の間では、ヘンリー・チューダーであった可能性が強いとする意見が多いのも事実なのです。
後に、1485年ボスワースの戦いでリチャード三世を倒し、ヘンリー七世となった人物、其の人です。

 ヘンリーはエドワード七世の庶子の曽孫で、其の為、王位継承順位から締め出されており、王位に就く為には、力に頼らねば成らず、彼は自分の地位を築く為に、ロンドン塔の王子達の姉、エリザベスと結婚し、エリザベスを王位継承者として布告します。

 しかしながら、リチャードの場合同様に、ヘンリーの有罪を立証する証拠も又存在しないのです。
只、少年達は叔父の手によって殺されたと、ヘンリーが公表したのは、ようやく1486年7月16日、リチャードの死後ほぼ1年を経過してからでした。
ヘンリーは、王座を獲得するやいなや、リチャードの残忍さと暴君ぶり暴き立てた彼が、なぜ幼児殺しの告発をそれ程にも遅らせたのでしょう?

続く・・・
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