歴史のお話その232:語り継がれる伝説、伝承、物語㉑
<リビングストン博士とアフリカ大陸>

リビングストンとスタンレー
デービット・リビングストン博士は、地球上の未知の世界に次々と新しい光を当てて行きました。
博士程、多くの地域を人類に紹介した人物は、他に居ないと思います。
博士の成功の鍵は、強烈な信仰心と薬箱と、誰に対しても変わらぬ態度でした。
博士が、アフリカにやって来たのは、全くの偶然に過ぎませんでした。
1813年、スコットランドのブランタイアで生れ、10歳の時、紡績工場に働きに出され、1日12時間も労働して、学費を稼ぎ、グラスゴーの医学校を卒業すると、医療伝道師として中国に渡りました。
しかし、博士の夢と希望は、アヘン戦争の前に空しく消し飛び、この戦争の結果、中国に於いて、医療伝道活動を続ける事は不可能で、1840年、彼はアフリカ行きを決心します。
この時、27歳でした。
19世紀に於いても、広大なアフリカ大陸のその大部分は、未知に世界で有り、欧米の人々にとって、其れはまさしく「暗黒大陸」で、人が足を踏み込む事が出来ない、疫病のはびこるジャングルに、原住民や未知の猛獣が住んでいる世界だったのです。
博士が初めて、アフリカに赴いた時、探検に関心は有りませんでした。
キリスト教伝道団を組織して、医療奉仕を行う事がその第一目的でしたが、数年の内に“旅行熱”に取り付かれました。
後に博士が書いている言葉を借りれば、「未開、未探検の国を旅するという単なる喜びが、非常に大きかった」のです。
◎未知の世界の探検
徒歩で、又はカヌーに乗り、時には水牛の背に跨り、アフリカ大陸南部の各地を巡り、この旅にはいつも薬箱と聖書、そして伝道に使用する、幻燈機を携えていました。
博士は素晴らしい語学力を持ち、観察力や洞察力も鋭く、アフリカの人々とも、当時の白人としては、極めて親密でした。
この様な人柄でしたから、知性豊で同情的な眼で、アフリカの文化に接する事が出来、其れを外部の世界に、初めて紹介する事が出来たのだと思います。
彼は、アラブやポルトガル商人が行っていた、おぞましい奴隷売買の実情を世界に知らせ、自分の眼で見た、この悲惨な実情にショックを受け、生々しい実地報告を行い、ヨーロッパの世論を湧き立たせ、奴隷商売廃止の運動を起こさせました。
その上、博士は、詳細な海図や地理学的な報告を、ロンドンの王立地理学会に送った他、珍しい病気や保健問題に関しても、詳細な記録を作りあげました。
やがて、博士は、アフリカをキリスト教の土地にする為には、アフリカ人自身に行わせる以外の方法は無いと確信する様に成りました。
白人の成すべき事は、利益の大きな奴隷商売に変わる商売を、アフリカに持ち込んでやる事であると考えたのです。
博士は、医療伝道師としての役割を放棄した訳では在りませんでしたが、1851年のザンベジ川発見は博士の生涯における、大きな転機と成りました。
博士は、1844年に伝道団仲間の女性と結婚し、数人の子供を設けましたが、その内の一人が、まだ幼児のまま熱病に感染して死亡すると、心配の種を根絶する為、家族をケープタウンに連れて行き、其処からイギリスに送り返してしまいます。
◎アフリカ横断
一人に成り、自由の身に成った博士は、六分儀とクロノメーターの使用方法を学ぶと、航行可能な大きな水路を探索し始めました。
この様な水路が、発見出来れば、ヨーロッパ人の前にアフリカの門戸は開き、キリスト教も商売も活発に成ると考え、其れから数年間に、博士は、大西洋岸のアンゴラからモザンビーク海岸迄行き、アフリカ大陸を横断した最初の白人と成りました。
1856年、イギリスに一時帰国した時は、熱狂的な歓迎を受け、初めての著書「南アフリカ伝道旅行記」は、忽ちの内にベストセラーと成ります。
間もなく、博士は、アフリカに戻り、今回は、東アフリカ担当の”陛下の領事“として、伝道団と離れ、産業化を目的とした大遠征隊を率いていました。
しかし、博士は、遠征隊の数々の問題を抱えて、身動きが取れなく成り、荷物を運ぶ人員の大部分が脱落した事や、何トンにも及ぶ食料、装備、更には政府から給付された、大きな川舟が隊の足枷に成ったのです。
最大に問題は、リビングストンに指導力が欠落していたうえ、頑固で仲間のイギリス人との関係は、崩壊寸前迄に成っていました。
遠征隊は、終に1863年、解散してしまいます。
◎ナイルの源流を求めて
1866年、博士は再び、王立地理学会の依頼でナイルの源流を探索する、探検に出発します。
博士は一人に成れた事を喜び・・・もっとも極少数のアフリカ人従者が居ましたが・・・ましたが、博士自身の体がマラリア、赤痢等の病気に罹り、衰弱していきます。
しかし、ナイルの源流を突き止め様とする、決意は変わらず、タンガニーカ湖周辺の分水嶺を調査中に食料も尽きはて、博士一行は、ウジジの町で休養を取らざるを得なく成りました。
◎スタンリーの登場
其れまで定期的に送られていた、手紙が止まり、博士の消息を危ぶむ声が日増しに増大する中、1871年2月、ヘンリー・モートン・スタンリー記者が、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員として、リビングストン博士捜索に旅立ちました。
スタンリーは、食料を始めとする資材、物資を充分に準備し、キャラバンを編成して、ザンジバルを出発し、リビングストンの消息を知らせる手掛かりを追って、ほぼ9ヶ月後の11月10日、ウジジの町に到着しました。
スタンリーは、其処で探検家リビングストンの疲れきった姿を見ました。
彼は、幕舎の前の空き地に建ち、自分を救出する為に、こんなにもはるばる遣って来てくれた事に驚き、救援隊を見つめていました。
二人のこの出会いを、スタンリーは自伝の中で、次の様に書いています。
“私は、彼の所へ歩いて行き、ヘルメットを取り、お辞儀をしておずおずと言った。
「リビングストン博士でいらっしゃると思いますが?」
如何にも誠実な笑いを浮かべて、彼は帽子を脱ぎ、ただ一言「イエス」と答えた。
是で私の疑念は一切消え去り、顔には隠し様も無い、心からの満足感が広がった。
私は手を差し出し、「お会いできる様にして下さった神様に感謝します」と言った。
彼は暖かく私の手を握り、優しい声で話をした。
私も彼も心から感動している事を感じた。
彼は言った。
「貴方をお迎えできて、本当に有り難く、感謝しています」と。“
◎遣り残した多くの仕事
スタンリーの救いの手が、早すぎた訳では決してなく、博士の病状は、非常に重く成っていたのでした。
ロンドンに帰れば、歓呼の声で迎えられる事は確実ですが、スタンリーが帰国を勧めても、決して耳を貸そうとしませんでした。
「私は、まだたくさんの仕事をしなければ成らないのです」と博士は語り、4ヶ月後スタンリーは引き上げました。
医薬品や食料を充分に補給して貰った博士は、再びナイル源流探索の旅に出かけました。
しかし、博士に残された寿命は、もう長く有りませんでした。
数ヶ月の内に、体力は更に低下し、担架で運ばれる事も有りました。
1873年5月1日の朝、従者が博士の小屋に入って行くと、博士はベッドの側に跪き、両手の上に額を載せ、ちょうどお祈りをしている様な姿でしたが、いくら起こしても、二度と目覚める事は有りませんでした。
村から村へと、この悲報は伝わり、何千人ものアフリカ人が遣って来て、最後のお別れしました。
博士の従者である、スージーとチューマは、博士の故国の人達が遺体を引取り、埋葬したいと思っている事を知っていましたから、二人は、博士の心臓だけを取り、其れが属する場所、アフリカの大地に埋めたのです。
そして、遺体はザンジバルから故国に運ばれ、ウェストミンスター寺院に安置されたのでした。
続く・・・

リビングストンとスタンレー
デービット・リビングストン博士は、地球上の未知の世界に次々と新しい光を当てて行きました。
博士程、多くの地域を人類に紹介した人物は、他に居ないと思います。
博士の成功の鍵は、強烈な信仰心と薬箱と、誰に対しても変わらぬ態度でした。
博士が、アフリカにやって来たのは、全くの偶然に過ぎませんでした。
1813年、スコットランドのブランタイアで生れ、10歳の時、紡績工場に働きに出され、1日12時間も労働して、学費を稼ぎ、グラスゴーの医学校を卒業すると、医療伝道師として中国に渡りました。
しかし、博士の夢と希望は、アヘン戦争の前に空しく消し飛び、この戦争の結果、中国に於いて、医療伝道活動を続ける事は不可能で、1840年、彼はアフリカ行きを決心します。
この時、27歳でした。
19世紀に於いても、広大なアフリカ大陸のその大部分は、未知に世界で有り、欧米の人々にとって、其れはまさしく「暗黒大陸」で、人が足を踏み込む事が出来ない、疫病のはびこるジャングルに、原住民や未知の猛獣が住んでいる世界だったのです。
博士が初めて、アフリカに赴いた時、探検に関心は有りませんでした。
キリスト教伝道団を組織して、医療奉仕を行う事がその第一目的でしたが、数年の内に“旅行熱”に取り付かれました。
後に博士が書いている言葉を借りれば、「未開、未探検の国を旅するという単なる喜びが、非常に大きかった」のです。
◎未知の世界の探検
徒歩で、又はカヌーに乗り、時には水牛の背に跨り、アフリカ大陸南部の各地を巡り、この旅にはいつも薬箱と聖書、そして伝道に使用する、幻燈機を携えていました。
博士は素晴らしい語学力を持ち、観察力や洞察力も鋭く、アフリカの人々とも、当時の白人としては、極めて親密でした。
この様な人柄でしたから、知性豊で同情的な眼で、アフリカの文化に接する事が出来、其れを外部の世界に、初めて紹介する事が出来たのだと思います。
彼は、アラブやポルトガル商人が行っていた、おぞましい奴隷売買の実情を世界に知らせ、自分の眼で見た、この悲惨な実情にショックを受け、生々しい実地報告を行い、ヨーロッパの世論を湧き立たせ、奴隷商売廃止の運動を起こさせました。
その上、博士は、詳細な海図や地理学的な報告を、ロンドンの王立地理学会に送った他、珍しい病気や保健問題に関しても、詳細な記録を作りあげました。
やがて、博士は、アフリカをキリスト教の土地にする為には、アフリカ人自身に行わせる以外の方法は無いと確信する様に成りました。
白人の成すべき事は、利益の大きな奴隷商売に変わる商売を、アフリカに持ち込んでやる事であると考えたのです。
博士は、医療伝道師としての役割を放棄した訳では在りませんでしたが、1851年のザンベジ川発見は博士の生涯における、大きな転機と成りました。
博士は、1844年に伝道団仲間の女性と結婚し、数人の子供を設けましたが、その内の一人が、まだ幼児のまま熱病に感染して死亡すると、心配の種を根絶する為、家族をケープタウンに連れて行き、其処からイギリスに送り返してしまいます。
◎アフリカ横断
一人に成り、自由の身に成った博士は、六分儀とクロノメーターの使用方法を学ぶと、航行可能な大きな水路を探索し始めました。
この様な水路が、発見出来れば、ヨーロッパ人の前にアフリカの門戸は開き、キリスト教も商売も活発に成ると考え、其れから数年間に、博士は、大西洋岸のアンゴラからモザンビーク海岸迄行き、アフリカ大陸を横断した最初の白人と成りました。
1856年、イギリスに一時帰国した時は、熱狂的な歓迎を受け、初めての著書「南アフリカ伝道旅行記」は、忽ちの内にベストセラーと成ります。
間もなく、博士は、アフリカに戻り、今回は、東アフリカ担当の”陛下の領事“として、伝道団と離れ、産業化を目的とした大遠征隊を率いていました。
しかし、博士は、遠征隊の数々の問題を抱えて、身動きが取れなく成り、荷物を運ぶ人員の大部分が脱落した事や、何トンにも及ぶ食料、装備、更には政府から給付された、大きな川舟が隊の足枷に成ったのです。
最大に問題は、リビングストンに指導力が欠落していたうえ、頑固で仲間のイギリス人との関係は、崩壊寸前迄に成っていました。
遠征隊は、終に1863年、解散してしまいます。
◎ナイルの源流を求めて
1866年、博士は再び、王立地理学会の依頼でナイルの源流を探索する、探検に出発します。
博士は一人に成れた事を喜び・・・もっとも極少数のアフリカ人従者が居ましたが・・・ましたが、博士自身の体がマラリア、赤痢等の病気に罹り、衰弱していきます。
しかし、ナイルの源流を突き止め様とする、決意は変わらず、タンガニーカ湖周辺の分水嶺を調査中に食料も尽きはて、博士一行は、ウジジの町で休養を取らざるを得なく成りました。
◎スタンリーの登場
其れまで定期的に送られていた、手紙が止まり、博士の消息を危ぶむ声が日増しに増大する中、1871年2月、ヘンリー・モートン・スタンリー記者が、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員として、リビングストン博士捜索に旅立ちました。
スタンリーは、食料を始めとする資材、物資を充分に準備し、キャラバンを編成して、ザンジバルを出発し、リビングストンの消息を知らせる手掛かりを追って、ほぼ9ヶ月後の11月10日、ウジジの町に到着しました。
スタンリーは、其処で探検家リビングストンの疲れきった姿を見ました。
彼は、幕舎の前の空き地に建ち、自分を救出する為に、こんなにもはるばる遣って来てくれた事に驚き、救援隊を見つめていました。
二人のこの出会いを、スタンリーは自伝の中で、次の様に書いています。
“私は、彼の所へ歩いて行き、ヘルメットを取り、お辞儀をしておずおずと言った。
「リビングストン博士でいらっしゃると思いますが?」
如何にも誠実な笑いを浮かべて、彼は帽子を脱ぎ、ただ一言「イエス」と答えた。
是で私の疑念は一切消え去り、顔には隠し様も無い、心からの満足感が広がった。
私は手を差し出し、「お会いできる様にして下さった神様に感謝します」と言った。
彼は暖かく私の手を握り、優しい声で話をした。
私も彼も心から感動している事を感じた。
彼は言った。
「貴方をお迎えできて、本当に有り難く、感謝しています」と。“
◎遣り残した多くの仕事
スタンリーの救いの手が、早すぎた訳では決してなく、博士の病状は、非常に重く成っていたのでした。
ロンドンに帰れば、歓呼の声で迎えられる事は確実ですが、スタンリーが帰国を勧めても、決して耳を貸そうとしませんでした。
「私は、まだたくさんの仕事をしなければ成らないのです」と博士は語り、4ヶ月後スタンリーは引き上げました。
医薬品や食料を充分に補給して貰った博士は、再びナイル源流探索の旅に出かけました。
しかし、博士に残された寿命は、もう長く有りませんでした。
数ヶ月の内に、体力は更に低下し、担架で運ばれる事も有りました。
1873年5月1日の朝、従者が博士の小屋に入って行くと、博士はベッドの側に跪き、両手の上に額を載せ、ちょうどお祈りをしている様な姿でしたが、いくら起こしても、二度と目覚める事は有りませんでした。
村から村へと、この悲報は伝わり、何千人ものアフリカ人が遣って来て、最後のお別れしました。
博士の従者である、スージーとチューマは、博士の故国の人達が遺体を引取り、埋葬したいと思っている事を知っていましたから、二人は、博士の心臓だけを取り、其れが属する場所、アフリカの大地に埋めたのです。
そして、遺体はザンジバルから故国に運ばれ、ウェストミンスター寺院に安置されたのでした。
続く・・・
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