歴史のお話その238:語り継がれる伝説、伝承、物語㉗
<アンデスの白い人々>

スペインの征服者が、南アメリカの西海岸を征服するより、遥かな昔、インカ帝国の建国よりも前、ティアワナコは既に廃墟と成っていました。
其処で、栄華を極めた人々は既に去り、崩れた記念碑だけが残り、石の城郭を空高く築き上げた、偉大な建設者達の力量を物語っていました。
ティアワナコは、海抜4000m、チチカカ湖の南岸、ボリビア・ペルー国境近くに位置し、この町は、紀元前100年から西暦1000年頃にかけて繁栄したものの、住民は文字による記録を一切残しませんでした。
現在、私達が彼らについて、知っている事は、殆んど全て400年前、スペイン人によって書き残された伝説の基づいているのです。
ティアワナコ人は家畜も、車輪も、コロさえも知らず、道具は石で出来た物しか存在しませんでした。
其れでも彼らは、40kmも離れた採石場から巨大な石塊を切り出し、起伏の激しい土地を越え、湖を渡って都迄運んだのでした。
此処で石隗は0.5mmの精度で研磨され、巨大建造物は造営されたのです。
其処には、今尚、幾つかの大建造物の廃墟が残っています。
最大の物がアカパナで、自然の丘を人工的に削り、石で覆い、縦横それぞれ200m、高さ15mの大きさに仕上げられており、その近くには、130m四方のカラササヤが在り、この壁には推定重量150tの巨石が使用されています。
カラササヤの門の向こうに、ティアワナコ文明の源を知る手掛かりとなる一つの彫刻が存在し、インカが後にビラコチャと呼んだ、頬に涙を流す創造神コンティキを刻んだものです。
インディオの伝説に因れば、コンティキは人間だったと云い、彼とその部下は、白い皮膚と青い眼をしていて、西暦500年頃ティアワナコにやって来たのでした。
恐らく、彼らは進んだ文明を持った平和な人々だったと思われ、インディヘナ達に建築と農業を教え、石造を建てたのでした。
其の後500年位後、海岸地方のインディヘナがティアワナコに侵入して来ましたが、その白い人々は殆どが虐殺されましたが、指導者と若干の人々は海岸に逃れ、船に乗って太平洋の彼方に去って行きました。
もう一つの手掛かりは、カラササヤの近郊に存在する、実物の2倍程の大きさの人物像です。
この像は、現在司教像と呼ばれており、本の様に見える物を持っていますが、1500年代にスペイン人に征服される迄、本という物は知られていませんでした。
是等の手掛かりと伝説、考古学的検証から研究者によって、ティアワナコの歴史概略を描き出しています。
しかし、ティアワナコをその頂点に押し上げた、白い皮膚を持った外国人の素性も彼らが何処に消えたのか、知る事は出来ませんでした。
フェニキア人は、キリスト教の時代が始まる遥か以前から、大西洋を航海しており、紀元前500年には、カナリア諸島に植民地も持っていました。
彼らは遠く、現在のブラジル沿岸に到達していた可能性が高く、その子孫が大陸を横断して、アンデス山脈に達した可能性も否定できないのです。
ギリシアの歴史家テオポンプスは、紀元前380年にジブラルタルの西に在る、広大な島の事を記録していますが、フェニキア人の航海者が、彼に南アメリカの事を語ったのでしょうか?
アイルランド伝説によれば、聖プレンダンは、西暦6世紀に大西洋を渡ったと云います。
この聖人が、南アメリカを訪れたと断言する研究者は、存在しませんが、アイルランドの修道士達が、大胆な航海者であった事は事実なのです。
彼らは、若木と獣皮で作られた、小船(コラクル)に乗り、少なくともアイスランドやグリーンランド迄航海しました。
あの司教と呼ばれる像は、祈祷書を手にした敬虔な神父であり、又インディヘナが想像した様に、悲しみの人、コンティキなのでしょうか?
現実的には、南アメリカの西岸は、ヨーロッパより、アジアの方からが接近しやすく、中国の史書には西暦500年に、仏教の僧侶が太平洋を航海して、遠く離れた土地に赴いた事が記録されており、西暦1000年頃には、日本の漁船が嵐の為に風と潮流に流され、エクアドルの海岸に上陸した痕跡が有ると云われ(?)、当時日本よりも遥かに航海術に秀でていた中国が、その600年前にこの大航海を成し遂げたとしても、不思議では有りません。
ノルウェーのトール・ヘイエルダールは、ティアワナコの白い人々が何処へ行ったかではなく、最初、何処から来たのかを説明しました。
西暦1480年頃、インカの皇帝とその部下が、アンデスに繁茂する非常に軽い木、バルサで作ったいかだの船団で、太平洋を越える長い航海を行った伝承が有り、その様ないかだは、海岸地方のインディヘナ達が遥か昔から使用していた物でした。
ヘイエルダールは、バルサのいかだを建造してコンティキ号と名付け、ペルーのカイヤオから西へ航海し、タヒチに近いラロイア島に到達しました。
この様にして、彼はティアワナコ人が如何にして、ポリネシアに逃れたかを証明して見せ、ティアワナコ人が実際にこの様な航海をした証拠として、彼は太平洋の多くの島々の石像が、ティアワナコのものと、信じられない程良く似ている事を指摘しています。
更に1970年には、ヘイエルダールは、古代エジプト人が使用したパピルスの船を造り、ラー2世号と名付け北アフリカから大西洋を渡り、西インド諸島のバルバドスに達しました。
この大胆な航海で、彼は古代の人々が如何にして、東半球から南アメリカへ到達する事ができたかを証明したのでした。
彼らは、最初グアテマラやメキシコに居住し、時の経過と共に、南アメリカを殖民していったと考えられます。
現在、中央アメリカから南アメリカに文明が伝承した事は、学術上も認められ、ヘイエルダールが正しければ、白い人々、つまりは大海を航海する術を持った旧世界に人々が、ティアワナコを造営した事になるのです。
続く・・・

スペインの征服者が、南アメリカの西海岸を征服するより、遥かな昔、インカ帝国の建国よりも前、ティアワナコは既に廃墟と成っていました。
其処で、栄華を極めた人々は既に去り、崩れた記念碑だけが残り、石の城郭を空高く築き上げた、偉大な建設者達の力量を物語っていました。
ティアワナコは、海抜4000m、チチカカ湖の南岸、ボリビア・ペルー国境近くに位置し、この町は、紀元前100年から西暦1000年頃にかけて繁栄したものの、住民は文字による記録を一切残しませんでした。
現在、私達が彼らについて、知っている事は、殆んど全て400年前、スペイン人によって書き残された伝説の基づいているのです。
ティアワナコ人は家畜も、車輪も、コロさえも知らず、道具は石で出来た物しか存在しませんでした。
其れでも彼らは、40kmも離れた採石場から巨大な石塊を切り出し、起伏の激しい土地を越え、湖を渡って都迄運んだのでした。
此処で石隗は0.5mmの精度で研磨され、巨大建造物は造営されたのです。
其処には、今尚、幾つかの大建造物の廃墟が残っています。
最大の物がアカパナで、自然の丘を人工的に削り、石で覆い、縦横それぞれ200m、高さ15mの大きさに仕上げられており、その近くには、130m四方のカラササヤが在り、この壁には推定重量150tの巨石が使用されています。
カラササヤの門の向こうに、ティアワナコ文明の源を知る手掛かりとなる一つの彫刻が存在し、インカが後にビラコチャと呼んだ、頬に涙を流す創造神コンティキを刻んだものです。
インディオの伝説に因れば、コンティキは人間だったと云い、彼とその部下は、白い皮膚と青い眼をしていて、西暦500年頃ティアワナコにやって来たのでした。
恐らく、彼らは進んだ文明を持った平和な人々だったと思われ、インディヘナ達に建築と農業を教え、石造を建てたのでした。
其の後500年位後、海岸地方のインディヘナがティアワナコに侵入して来ましたが、その白い人々は殆どが虐殺されましたが、指導者と若干の人々は海岸に逃れ、船に乗って太平洋の彼方に去って行きました。
もう一つの手掛かりは、カラササヤの近郊に存在する、実物の2倍程の大きさの人物像です。
この像は、現在司教像と呼ばれており、本の様に見える物を持っていますが、1500年代にスペイン人に征服される迄、本という物は知られていませんでした。
是等の手掛かりと伝説、考古学的検証から研究者によって、ティアワナコの歴史概略を描き出しています。
しかし、ティアワナコをその頂点に押し上げた、白い皮膚を持った外国人の素性も彼らが何処に消えたのか、知る事は出来ませんでした。
フェニキア人は、キリスト教の時代が始まる遥か以前から、大西洋を航海しており、紀元前500年には、カナリア諸島に植民地も持っていました。
彼らは遠く、現在のブラジル沿岸に到達していた可能性が高く、その子孫が大陸を横断して、アンデス山脈に達した可能性も否定できないのです。
ギリシアの歴史家テオポンプスは、紀元前380年にジブラルタルの西に在る、広大な島の事を記録していますが、フェニキア人の航海者が、彼に南アメリカの事を語ったのでしょうか?
アイルランド伝説によれば、聖プレンダンは、西暦6世紀に大西洋を渡ったと云います。
この聖人が、南アメリカを訪れたと断言する研究者は、存在しませんが、アイルランドの修道士達が、大胆な航海者であった事は事実なのです。
彼らは、若木と獣皮で作られた、小船(コラクル)に乗り、少なくともアイスランドやグリーンランド迄航海しました。
あの司教と呼ばれる像は、祈祷書を手にした敬虔な神父であり、又インディヘナが想像した様に、悲しみの人、コンティキなのでしょうか?
現実的には、南アメリカの西岸は、ヨーロッパより、アジアの方からが接近しやすく、中国の史書には西暦500年に、仏教の僧侶が太平洋を航海して、遠く離れた土地に赴いた事が記録されており、西暦1000年頃には、日本の漁船が嵐の為に風と潮流に流され、エクアドルの海岸に上陸した痕跡が有ると云われ(?)、当時日本よりも遥かに航海術に秀でていた中国が、その600年前にこの大航海を成し遂げたとしても、不思議では有りません。
ノルウェーのトール・ヘイエルダールは、ティアワナコの白い人々が何処へ行ったかではなく、最初、何処から来たのかを説明しました。
西暦1480年頃、インカの皇帝とその部下が、アンデスに繁茂する非常に軽い木、バルサで作ったいかだの船団で、太平洋を越える長い航海を行った伝承が有り、その様ないかだは、海岸地方のインディヘナ達が遥か昔から使用していた物でした。
ヘイエルダールは、バルサのいかだを建造してコンティキ号と名付け、ペルーのカイヤオから西へ航海し、タヒチに近いラロイア島に到達しました。
この様にして、彼はティアワナコ人が如何にして、ポリネシアに逃れたかを証明して見せ、ティアワナコ人が実際にこの様な航海をした証拠として、彼は太平洋の多くの島々の石像が、ティアワナコのものと、信じられない程良く似ている事を指摘しています。
更に1970年には、ヘイエルダールは、古代エジプト人が使用したパピルスの船を造り、ラー2世号と名付け北アフリカから大西洋を渡り、西インド諸島のバルバドスに達しました。
この大胆な航海で、彼は古代の人々が如何にして、東半球から南アメリカへ到達する事ができたかを証明したのでした。
彼らは、最初グアテマラやメキシコに居住し、時の経過と共に、南アメリカを殖民していったと考えられます。
現在、中央アメリカから南アメリカに文明が伝承した事は、学術上も認められ、ヘイエルダールが正しければ、白い人々、つまりは大海を航海する術を持った旧世界に人々が、ティアワナコを造営した事になるのです。
続く・・・
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