2013/10/23

歴史のお話その242:語り継がれる伝説、伝承、物語㉛

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その1>

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生贄の泉(チェチェン・イッツア)

◎チェチェン・イッツア

 メキシコ合衆国のパナマ地峡に近いユカタン半島は、現在沿岸部を除いて住む人間も殆ど居ない地域と成っています。
しかし、現在から500年程遡ったコロンブスのアメリカ大陸発見当時は、アステカ族よりも更に高度な文明を誇ったマヤ族が居住していました。
マヤ族に関する研究は、アメリカ人ジョン・エル・ステフェンス(John L、Stephens)やイギリス人フレデリック・キャザウッド(F、Catherwood)、探検家のアルフレッド・モーズレイ(A,P,Maudslay)等により、19世紀中葉よりユカタン半島現地に於いて調査が進められた結果、マヤ族の文化が少しづつ判明してきました。

 研究によれば、マヤ族は紀元68年頃、既に都市ウワハクトン(ホンジュラス)を建設していました。
彼等は120年間に渡ってウワハクトンに住み、その後24km離れたティカルに拠点を移動します。
ティカルには西暦5世紀初頭迄、マヤ族が居住した痕跡が、都市内に現存する記念物から推定されています。
ティカルの後、マヤ族は次々と遷都を繰り返し、終には紀元530年より629年の間に、中部メキシコの地域を遺棄して、北方のユカタン半島に移住しました。

 彼等は600年に渡る文化を捨て、地味の悪い地域に何故移住したのでしょう?
疫病の蔓延、戦争、凶作等結果なのかは、現在でも良く判っていませんが、一般には度重なる遷都や、ユカタン半島への大移動は、何れも凶作に起因するものと考えられています。

 マヤ族がユカタン半島に移住した時、農耕に必要な河川は殆ど存在していませんが、ユカタン半島北部には、之に代わる非常に大きなセノテス(自然湧水)が存在していました。
ユカタン半島は石灰質の土壌であり、その地下には無数の湖や河川が存在し、地殻が地下に向って傾斜すると、必ず地下水が湧き出しました。
マヤ族はこの豊かな水源を利用して、農耕を行い、飲料水として利用していきました。

 この地に建設された最大の都市が、チェチェン・イッツア(Chichen itza)で、ユカタン半島のほぼ中央部に位置し都市の近郊には、巨大な遊水地を2箇所も従えていました。
この遊水地は、地殻が40m程陥没した場所に出現した、深水湖であり、その直径は60m余り、両者はお互いに1.6km程離れています。
マヤ族はこの地で、十分な水を得る事が出来る為、都市の建設を開始したのでした。
因みに、チェチェン・イッツアとはマヤ語で「泉の口に在るイッツアの町」を意味しています。

 二つの泉の内一方は、住民の飲料水と田畑の灌漑に利用され、もう一方は神聖なものとして、雨の神ナホチェ・ユムチャックに奉げられました。
この泉は、水深20m、水面に達する為には更に20m以上も壁面を下る必要が在りました。
マヤ人はこの第二の泉が、陰鬱で神秘的な雰囲気に恐れを抱き、雨の神がこの深い泉の底に神殿を構えて住んでいると信じていたのでした。

 マヤ族の間に古くから伝えられた話では、12世紀から13世紀頃、彼等の場所に一人の異邦人が現れ、メキシコ人はこの人物をケツアルコアトルと呼称し、マヤ族はククルカン(有翼の蛇)と呼びました。
ククルカンは戦争捕虜として、チェチェン・イッツアに連行され、雨の神ナムチュ・ユムチャクへ捧げる生贄として、聖なる泉に落とされました。
しかし、ククルカンは溺れる事がなく、マヤ族は古くからの慣わしに従い、彼を救い神の位を授けました。
やがて、ククルカンはチェチェン・イッツアの支配者と成り、ユカタン半島最大勢力を持つ首長と成っていきました。
人々は彼を生き神として崇め、彼の為に神殿を建立したのです。

続く・・・

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