fc2ブログ
2013/10/24

歴史のお話その243:語り継がれる伝説、伝承、物語㉜

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その2>

20080826144512_convert_20110429195533.jpg
雨の神の花嫁(想像図)

◎雨の神の花嫁

 ククルカンの神殿は高さ30m、基礎部分の面積60平方mのピラミッド状をしており、頂上には石造りの神殿が祭られ、この神殿から雨の神の住む聖なる泉に通じる、幅4.5m、全長400mの石畳の道が存在し、両側には有翼の蛇ククルカンの聖像が無数に欄干の如く並んでいます。

 ククルカンの神殿及び、聖なる泉、その石畳はマヤ族の生活に密接な関係が在り、日照りが続き、農作物が干からび始めると、之は雨の神ユムチャクの怒りによるものと信じ、神を宥める為、14歳になる美しい処女を選び、花嫁として聖なる泉に投げ込む風習が在りました。

 生贄の花嫁は、二度と姿を現す事は在りませんが、死にはしないと考えるのが、彼らの信仰であり、生贄と一緒に宝石や雨の神の神殿で生活する為に必要な品物も供物して、投げ込んだのでした。
この雨の神ユムチャクへの生贄については、マヤ族全体が深い関心を持ち、儀式の当日には国中の人々は、生贄を見送る為、この地に参集したのです。

 ククルカンの神殿には、マヤ族の中から選抜された、14歳の美しい処女が、雨の神の花嫁として捧げられる為、美しく着飾り、その時の至る事を待っていました。
その傍らには、マヤ族の中で最も勇敢な若者が、きらびやかな衣装に身を固め、いたいけな花嫁の旅路を守り、雨の神の神殿に無事送り届ける為に控えています。

 やがて夜明けの時間が訪れると、法螺貝の合図と共に、生贄の行列は、司祭長を先頭に、神殿を後に聖なる泉に向かいます。
綺麗に掃き清められた、90段もある急な階段を下り、石畳の上に足を印した時、雨の神の栄光を称える楽隊がその列に加わり、生贄の少女とその警護の勇者は進んでいきます。
石畳の道は、聖なる泉の縁で突然終わり、密林に囲まれた石造りの祭殿に行き当たります。
祭壇の先は、聖なる泉が静まりかえって存在し、周囲の木々の梢から太陽の光が差し込んで来る頃、司祭長は祭壇から、泉に向って手を差し伸べ、雨の神に祈りを捧げ、やがて太鼓の合図と共に花嫁が泉の縁に進み、6人の司祭が彼女を抱えるとゆっくりと前後にゆり動かし、楽隊の旋律は序所に早くなり、それが最高潮に達した時、花嫁は司祭達の手を離れ、暗い泉の中に向っていきました。
警護の若者がその後を追い、さまざまな品物が泉に投げ込れるのでした。
後に「ユカタン事物紀」(Relacion de las cosas de Yucatan)を著したディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa)は、「若し、この国に金が在るとするならば、この泉こそ、その大部分を沈めている筈である」と述べています。

 この儀式も16世紀中頃には終わりを告げ、ユカタン半島がスペイン勢力に落ち、マヤ族の王国が滅亡してからは、一度も行われた事は在りません。
その後、聖なる泉の周囲は自然に戻りつつ在り、僅かに石造りの祭壇や荒れる任せた石畳が、その昔の面影を留めるばかりなのです。

◎ククルカンの墓

 今迄のお話は、ランダ神父の著作に記された事柄ですが、この記録を信じ、聖なる泉を調査、探検しようと志す者も居ます。
1885年から25年間に渡り、この地方のアメリカ領事を務めた、E・H・タムスンは、40年以上をユカタン半島で過ごし、精魂を傾けてマヤ族の遺跡を調査しました。
その長い期間の内に、彼は原住民の仕掛けた、毒ねずみの罠に係り足が不住となり、聖なる泉の調査では水中に潜って耳が不住になり、しかも幾度も風土病に悩まされ続けました。
彼は、チェチェン・イッツアを訪れた時、聖なる泉の伝説を知り、その真偽を確かめ様と考え、友人を口説き落として資金を集め、浚渫機器を揃えスキンダイビングを習得しました。

 タムスンは聖なる泉の最も有望と予想される位置に、浚渫機を設置し、泉の底を浚い始めました。
最初は、汚泥や木々の枝等が殆どで、この状態が長期間に及び流石に楽観主義者のタムスンも、自分の考えに誤りが有るのではないかと疑い始めたます。
しかし、ある日の事、浚渫機は香料の塊をすくい上げ、それから数ヶ月の間に、花瓶、香炉、矢尻、槍の穂、斧、金製の盤、玉の飾り等が次々と発見され、花嫁の伝説を裏付ける若い男女の遺骨も発見されました。
タムスンは潜水服に身を委ね、毎日聖なる泉の底に潜り、調査を続け結果、その発見した黄金の品々は、水鉢と杯、40枚に上る平皿、指輪20個、鈴100個、無数の金塊、金細工300個と膨大な価値のもので、泉の伝説を立証するに十分な発見でした。

 タムスンの発見は、聖なる泉の探索に留まらず、或る日の事、彼はククルカンの神殿の頂上にある祠の床を清掃していた際、その真ん中に、滑らかに仕上げられた大きな石蓋が存在する事に気づき、その石蓋を注意深く動かすと、その下に石壁で囲まれた大きな四角い穴が在り、縦穴の3.5m下の床には、長さ4m余りの大蛇がとぐろを巻いていました。

 彼は、大蛇を始末すると、その下から古い二人の人骨を発見し、その人骨の下には、最初と同様な石蓋が在り、その石蓋の下には更に別の縦穴の墓所が存在していました。
この様に同様な発見を繰り返し、5番目の石蓋を取り除くと、岩をくり抜いた階段が現れ、同じく岩を広げた部屋に辿り着きました。
この場所は、神殿の底部に位置するものと考えられました。

 階段とそれに続く部屋には、木灰が沢山詰まっており、可也の時間を費やして之を取り除き、床の上の石蓋に辿り着き、この下には更に大きな穴が開いており、その深さは15mに達し、其処には宝石の詰まった花瓶、真珠の首飾り、腕輪等が無数に散らばっていました。
ここは、位の高い神官の永久の寝室かも知れませんが、マヤ族の伝説に存在する、彼らの大指導者、有翼の蛇をシンボルとした、文化英雄ククルカンの墓所の可能性も在りました。

 タムスンの発見は、ハワード・カーター(Howard Carter)、カーナヴォン卿(Lord Carnavonn)による1922年11月、王家の谷に於ける、ツタンカーメン王墓の発見とは比べる事は出来ませんが、古代マヤ文明を世界に知らしめた功績は、多大なものと言えるでしょう。

続く・・・
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント