歴史のお話その247:語り継がれる伝説、伝承、物語㊱
<太平洋への道>

仲間達の見守る中、29歳のスコットランド人は、朱色の絵の具にグリースを混ぜて、岩肌に大きく書き殴りました。
“アレックス・マッケンジー。
カナダから陸路到着。
1793年7月22日”
北アメリカ探検史上最大の快挙が、見事に達成された瞬間でした。
この岩石は現在も残り、白人として初めて北米大陸を横断した、マッケンジーの偉業を称えています。
マッケンジーは1764年、スコットランド西方に位置する、ヘブリジーズ諸島のストーノウェイに生れ、アメリカで育ちました。
母親の死後、父親と共に新大陸アメリカに移住し、学業はニューヨークとモントリオールで納め、モントリオールを根拠地として、毛皮貿易を行っていた、ノース・ウエスト会社に就職し、彼は西の果て、フォートチペワイアンに派遣されました。
◎太平洋の誘惑
任地迄カヌーで行った事がきっかけと成り、彼の探検熱が目を覚ましました。
当時、ノース・ウエスト社は太平洋に到達して、ラッコの毛皮で利益を上げたいと望んでいましたが、当時、ラッコの毛皮は、シベリアのロシア人が独占しており、太平洋に到達したい願望は、マッケンジーも同様でした。
一冬を一緒に過ごした事のある、ピーター・ボンドという開拓者が、書き残したラフな水路図やメモを彼はじっくりと研究しました。
北へ流れる川は、最終的には西に転じて、太平洋に注ぐに違いない、其れならば、北西方向に抜け道が存在するはずであると、マッケンジーは考えました。
1789年6月3日、13人の仲間と共に、3隻のカヌーで川を北へと向かいました。
だれ一人として、その川の注ぐ先が何処なのか、解かりませんでしたが、マッケンジーの推測は、間違っていました。
流れは西へと向う事はなく、彼らを北極海へと運んでしまいますが、この河川は今日、カナダの地図に掲載されているマッケンジー河川系でした。
是も大きな発見なのですが、マッケンジーの本来の目標とは大きく異なり、依然として太平洋への道は、彼に閉ざされていました。
1791年から1792年にかけての冬を彼は、ロンドンで地理、航海術を研究して過ごし、1792年の秋に、フォートチペワイアンで仲間達と再会し、ここで冬を越しました。
◎選 択
マッケンジーのグループは、5月に成ってやっと動き出す事ができました。
仲間は9人、食料等の携行品は1350kg、是等を全て、カバの木の皮で作った長さ7.5mのカヌーに載せて出発したのでした。
最初は順調でしたが、やがて、ピース川の激流に遭遇し、この激流はロッキー山脈迄の40kmの間続きました。
漸くして、激流を抜けると、川が二股に分かれる処で決断をせまられました。
北西に流れる、広くて安全に思える主流(現:フィンレー川)に乗るか、其れとも南に向う、狭くて流れの速い支流(現:ハースニプ川)にすべきなのでしょうか?
マッケンジーは、以前に、北へ向う川は、険しい山々を抜けていて、誰も通る事が出来ないと、ネイティブ・アメリカンの老人から聞いた事が在りました。
其処で、彼は仲間全員の反対意見を押し切って、南の支流を選んだのです。
この選択は困難な旅で、カヌーがセニカ族に止められた時、仲間は再び不平を洩らしますが、通訳を介してマッケンジーは、この川が南に流れ、他の川と合流する事、その川は“悪臭を放つ湖”に流れ込んでいる事を知りました。
◎分水嶺を越えて
一行が塩水の話を耳にした事は、是が最初で、更に進むと、川は分かれて迷路に様になりました。
6月12日、カヌーは水から引き上げられ、小さな湖迄運び上げられました。
白人が終に、北米大陸の分水嶺を越えた瞬間です!
カヌーを岩の衝突させて壊れた部分を修理した後、一行は、ようやくフレーザー川に到達し、彼らは安全に西へと運ばれて行きました。
途中、アタバスカ族の領地を通る時、矢を射掛けられた事も有りましたが、マッケンジーは仲間に発砲しない様に命じ、一切の武器を持たずに上陸しました。
この大胆不敵な行動は、アタバスカ族を圧倒し、ビーズやナイフ等の贈り物を受け取ると、フレーザー川が最後に大きな海(太平洋)の注ぐ事、真西に陸路を進めば別の川が在る事を教えてくれたのです。
真夏でしたが、カヌーを降りて雪の山道を越えた時は、寒さに震え上がり、暖かいベラクーラ川の渓谷に下りる迄、13日を要しました。
友好的なネイティブ・アメリカンが2隻のカヌーを貸してくれた事で、こうして7月20日、一行は迷路の様に入り組んだ島々を抜けて、ディーン海峡に入る事ができました。
2日後、マッケンジーは岩の南東側に、記念の言葉を殴り書きし、帰路についたのです。
帰路は、33日しか掛からず、8月24日には、フォートチペワイアンに到着する事が出来ました。
彼は、北極海と太平洋の両方を見た上に、一人の犠牲者も出さず、探検を成功させました。
続く・・・

仲間達の見守る中、29歳のスコットランド人は、朱色の絵の具にグリースを混ぜて、岩肌に大きく書き殴りました。
“アレックス・マッケンジー。
カナダから陸路到着。
1793年7月22日”
北アメリカ探検史上最大の快挙が、見事に達成された瞬間でした。
この岩石は現在も残り、白人として初めて北米大陸を横断した、マッケンジーの偉業を称えています。
マッケンジーは1764年、スコットランド西方に位置する、ヘブリジーズ諸島のストーノウェイに生れ、アメリカで育ちました。
母親の死後、父親と共に新大陸アメリカに移住し、学業はニューヨークとモントリオールで納め、モントリオールを根拠地として、毛皮貿易を行っていた、ノース・ウエスト会社に就職し、彼は西の果て、フォートチペワイアンに派遣されました。
◎太平洋の誘惑
任地迄カヌーで行った事がきっかけと成り、彼の探検熱が目を覚ましました。
当時、ノース・ウエスト社は太平洋に到達して、ラッコの毛皮で利益を上げたいと望んでいましたが、当時、ラッコの毛皮は、シベリアのロシア人が独占しており、太平洋に到達したい願望は、マッケンジーも同様でした。
一冬を一緒に過ごした事のある、ピーター・ボンドという開拓者が、書き残したラフな水路図やメモを彼はじっくりと研究しました。
北へ流れる川は、最終的には西に転じて、太平洋に注ぐに違いない、其れならば、北西方向に抜け道が存在するはずであると、マッケンジーは考えました。
1789年6月3日、13人の仲間と共に、3隻のカヌーで川を北へと向かいました。
だれ一人として、その川の注ぐ先が何処なのか、解かりませんでしたが、マッケンジーの推測は、間違っていました。
流れは西へと向う事はなく、彼らを北極海へと運んでしまいますが、この河川は今日、カナダの地図に掲載されているマッケンジー河川系でした。
是も大きな発見なのですが、マッケンジーの本来の目標とは大きく異なり、依然として太平洋への道は、彼に閉ざされていました。
1791年から1792年にかけての冬を彼は、ロンドンで地理、航海術を研究して過ごし、1792年の秋に、フォートチペワイアンで仲間達と再会し、ここで冬を越しました。
◎選 択
マッケンジーのグループは、5月に成ってやっと動き出す事ができました。
仲間は9人、食料等の携行品は1350kg、是等を全て、カバの木の皮で作った長さ7.5mのカヌーに載せて出発したのでした。
最初は順調でしたが、やがて、ピース川の激流に遭遇し、この激流はロッキー山脈迄の40kmの間続きました。
漸くして、激流を抜けると、川が二股に分かれる処で決断をせまられました。
北西に流れる、広くて安全に思える主流(現:フィンレー川)に乗るか、其れとも南に向う、狭くて流れの速い支流(現:ハースニプ川)にすべきなのでしょうか?
マッケンジーは、以前に、北へ向う川は、険しい山々を抜けていて、誰も通る事が出来ないと、ネイティブ・アメリカンの老人から聞いた事が在りました。
其処で、彼は仲間全員の反対意見を押し切って、南の支流を選んだのです。
この選択は困難な旅で、カヌーがセニカ族に止められた時、仲間は再び不平を洩らしますが、通訳を介してマッケンジーは、この川が南に流れ、他の川と合流する事、その川は“悪臭を放つ湖”に流れ込んでいる事を知りました。
◎分水嶺を越えて
一行が塩水の話を耳にした事は、是が最初で、更に進むと、川は分かれて迷路に様になりました。
6月12日、カヌーは水から引き上げられ、小さな湖迄運び上げられました。
白人が終に、北米大陸の分水嶺を越えた瞬間です!
カヌーを岩の衝突させて壊れた部分を修理した後、一行は、ようやくフレーザー川に到達し、彼らは安全に西へと運ばれて行きました。
途中、アタバスカ族の領地を通る時、矢を射掛けられた事も有りましたが、マッケンジーは仲間に発砲しない様に命じ、一切の武器を持たずに上陸しました。
この大胆不敵な行動は、アタバスカ族を圧倒し、ビーズやナイフ等の贈り物を受け取ると、フレーザー川が最後に大きな海(太平洋)の注ぐ事、真西に陸路を進めば別の川が在る事を教えてくれたのです。
真夏でしたが、カヌーを降りて雪の山道を越えた時は、寒さに震え上がり、暖かいベラクーラ川の渓谷に下りる迄、13日を要しました。
友好的なネイティブ・アメリカンが2隻のカヌーを貸してくれた事で、こうして7月20日、一行は迷路の様に入り組んだ島々を抜けて、ディーン海峡に入る事ができました。
2日後、マッケンジーは岩の南東側に、記念の言葉を殴り書きし、帰路についたのです。
帰路は、33日しか掛からず、8月24日には、フォートチペワイアンに到着する事が出来ました。
彼は、北極海と太平洋の両方を見た上に、一人の犠牲者も出さず、探検を成功させました。
続く・・・
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