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2013/11/02

歴史のお話その250:語り継がれる伝説、伝承、物語㊴

<ドレイクの併合宣言>

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サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake, 1543年頃 - 1596年1月28日)

◎カリフォルニアはイギリス領?

 サンフランシスコに住むペリル・ジンは、1936年の夏、ゴールデンゲイトブリッジの北側の浜辺にピクニックに出掛けました。
何気なく岩を持ち上げると、その下に汚れた古い真鍮版が隠れていました。
彼は車を修理する時に役立つかもしれないと考えて、その板を自宅に持ち帰りました。

◎女王陛下の名に於いて

 彼は板を自宅のガレージに置いたまま、8ヶ月間程忘れていました。
そして1937年の初め、改めて板の存在に気づき、石鹸水で磨いてみると、大きさは縦13cm、横20cm程の板で、底部に凹凸の窪みが在り、表面には線文字が刻まれ、微かに「ドレイク」の文字は判読出来ました。

 この真鍮版の発見が、アメリカ史研究家や冶金学者、中世英語学者を巻き込む国際的な騒動に発展したのでした。
板に刻まれていたのは、フランシス・ドレイク(1540年~1596年)による1579年のカリフォルニア併合宣言だったからです。

 ペリル・シンは板をカリフォルニア大学のハーバート・ボルトン教授に送り、博士は慎重に汚れを取り除き、その全文を解読しました。

1579年6月17日、本証書により全人民に告ぐ。
神の恩寵と、イングランド女王エリザベス陛下及びその後継者の名に於いて、余はこの王国の領有を宣告する。
ノバ・アルビオンと余が命名し、あまねくこの名で呼ばれるべきこの国は、今後女王陛下に属し、王と人民は全地域に於ける権利と資格を自発的に陛下に貢納するもの也。
フランシス・ドレイク


 カリフォルニア歴史学会の席上、唖然とする会員達にボルトン博士は、意気揚々と報告します。
「357年間の喪失から蘇えったドレイクの板だ!この真鍮版こそ、カリフォルニア最大の考古学的遺産だ!」

◎カリフォルニアに降臨した神

 白熱した議論が巻き起こりました。
フランシス・ドレイクが1579年、世界周航の途中カリフォルニアに立ち寄った事は知られています。
南アメリカ南端を回り太平洋を北上した時の事でした。

 現在のカナダ北部で太平洋と大西洋が繋がっている、と古い時代の航海者は信じていました。
伝説の北西航路に向かおうとしていたドレイクは、現在のカリフォルニアのサンフランシスコに近い場所に上陸しました。
一行は現地のネイティブアメリカンの暖かい歓迎を受け、ドレイク達を神の降臨と思い、太平洋岸の彼らの土地をドレイクに提供したのでした。

 航海日誌に拠れば、ドレイクは申し出を礼儀に従って受け入れ、海岸に領有宣言の告知文を掲示し、この国がエリザベス女王の領地と成り、以後ノバ・アルビオンと呼ばれる事を宣言したのでした。

 当然のことながら、学会は大騒動と成り、真鍮版を偽物と決め付けた学者も居ました。
当時の航海日誌にドレイクは、「白い岸と崖」が目印の場所に上陸したと、記録されている事が、論争の中心に成りました。
真鍮版の発見場所には、その様な地形が存在しない上、板に刻まれた日付の信憑性が問題に成り、ドレイクの上陸は6月17日ですが、ネイティブ・アメリカンは6月26日迄領土を譲らなかったと航海日誌は述べているのです。

◎科学の投げた疑問

 真鍮版を分析した結果、16世紀の物にしては、当時の標準より亜鉛の含有量が多い事が、判りました。
更に板の表面には、大量の炭素が含まれている事が、実験で証明されました。
恰も、火で焼いて古びさせた、模造の骨董品と同様に・・・。

 しかし、攻撃の中心は、失われた文字と書体に集中し、記されている文字は全て、エリザベス朝時代に一般的であった装飾的なチューダー書体よりもむしろ、学者しか使用しなかったローマン書体でした。
更に言葉の綴りが一定せず、ページによって変化する場合の多かった時代の文章にしては、全て揃っている事が疑惑を呼びました。

 しかも16世紀にしばしば使用された古い綴り、例えば“Yngland”(イングランド)”Kyng”(王)“Quene”(女王)と言った単語が全て現代綴りで記されていました。
そして、否定論者達は決定的な部分として、碑文中の”herr”(彼女)の綴りは当時存在しなかったと主張しました。

 ボルトン博士は、加えられたこれ等の批判の全てに反論し、ネイティブ・アメリカン達は、公式に領土を6月26日迄譲渡しなかったかも知れませんが、航海日誌には「我々の到着したその日に」に告知文書が刻まれたと述べられているのでした。

 更に新たな科学的な分析によって、真鍮版は新しい物ではなく「いく歳月を経て形成された」皮膜で自然に覆われており、窪みの部分に在った植物の花粉は「疑いなく炭化し」ており、この事実は板が相当長い時間、空気中に曝された場合にのみ生じうる現象でした。

 書体と綴りについては、ボルトン博士の支持者達が、否定論者に反論しました。
ドレイクの船には、一人も学者が乗船していなかったのでしょうか?
或いは少なくとも、ローマン書体の手本になる本が一冊も積まれていなかったのでしょうか?
これ程短い文章なら、綴り文字が統一されるのは、むしろ自然であると思われます。

 そして間も無く、別の領土建設趣意書の中でドレイクが”herr”の文字を使用している事が、明らかに成りました。
今や反論できない批判はただ一つ、ドレイクが白い岸と崖の近くに上陸した点に絞られて行きました。
そして、驚くべき報告が齎されたのでした。

 ペリル・シンの発見のニュースが公表されると、一人の人物が名乗りを上げました。
彼はシンの発見から4年前、ラグーナビーチで主人の帰りを待っているとき、暇つぶしに靴の先で地面を蹴っていると、地中から真鍮版が姿を現し、その上の文字を彼は中国語と思ったが、「ドレイク」の署名だけははっきり読む事が出来ました。

 彼は暫くその真鍮版を手元に置いていましたが、数ヶ月前ペリル・シンが板を発見した場所から、然程遠く無い場所に板を投げ捨てました。
その場所は、以前からドレイクの上陸した地点と伝えられる場所で、その最も目立つ地形的特長は、高い白い崖でした。
真鍮版の汚名は、無事に晴れ、ドレイクの不動産権利証書はカリフォルニア大学に納められましたが、イギリス本国は寛大にも、領土権の主張をしていません。

続く・・・
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