2013/11/08

歴史のお話その255:語り継がれる伝説、伝承、物語㊹

<北極海に挑んだ船乗り>

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 極北の海に舞う水飛沫は、空中で凍り、船の外部は凍りついており、氷片は刃物の様に鋭利で、衣類を切り裂き、手袋をはめずに不用意に手すり等を握ろうでもしようなら、手のひらの皮が手すりに張り付きました。
勿論、船から海中への転落は、間違いなく死を意味していました。

 この海は、現在バレンツ海と呼ばれ、ほぼ400年前、この海に挑んで死んだ、オランダ人探検家ウィレム・バレンツの名前と取って名付けられました。

 1597年6月13日、激しい西風が、凍てついた島に吹き付け、間に合わせの避難小屋の中で、一人のオランダ士官が、この様に記録しました。
「我々の中で、もっとも優秀で頑強な者でさえ、長期間耐えてきた厳しい寒さや病気の為、すっかり衰弱し、半分の力しか出せなくなっている。これから先、長期の航海を強いられる事を考えれば、事態は良くなるよりも、ますます悪くなると思われる。食料は、せいぜい8月の終わり迄しか持たないだろう」
この手紙の署名は、船長ヘームスカーク、水先案内人ウィレム・バレンツと乗組員一同となっていて、小屋の煙突に詰め込まれていました。
この後、15人は2隻の小船に分乗して、海へと漕ぎ出したのです。

 この手紙は、それからほぼ300年後の1871年、ノルウェー捕鯨船の乗組員が、ノバヤゼムリャ島に上陸して発見しました。
そして、手紙の内容は、冷酷無残な北極海を相手に闘った、人間の苦闘の歴史を、改めて思い起こさせるものでした。

 バレンツは、インド亜大陸に至る、幻の「北西航路」を発見する仕事を、オランダ商人から依頼され、水先案内人となり、2隻の船で1596年5月に出帆しました。
スピッツベルゲン諸島を通過した所で、流氷群が北への道を閉ざしていた為、針路を東に転身し、ノバヤゼムリャ島の北端を回る事にしましたが、このルートを以前にも1度経験していた、もうい1隻の船の船長ヤン・ライプは、この針路転身を危険として、同行を断りました。

◎氷  海

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 バレンツの船がただ1隻、ノバヤゼムリ島の北端を回った時、ライプ船長の主張が正しかった事が、恐ろしい程はっきりとして来ました。
8月という時期にも関わらず、バレンツとその乗組員達は、如何にして北極の海を生き抜くか、という問題に直面したのでした。
まず、彼らは流木で島に小屋を建て、そして氷に閉じ込められた船から、食料等の物資を移し、キツネを殺して食肉にし、雪を溶かして飲料水としました。

 しかし、寒さは悪夢の様でした。
ストーブを昼夜の別無く焚きつづけ、その周りに寄り添うように固まっても、温まるのはストーブに面したのみで、背中はいつも一面の霜でした。
ベッドは、熱した石で暖め、こうして二人を除く全員が、何とか冬を越す事が出来ました。

 春が訪れ、太陽の光が戻って来て、1日の内の数時間は陽が差しましたが、その頃、船は難破船同然と成り、残った2隻のボートで脱出するしか方法は有りませんでした。
其処で彼らは手紙を書き、自分達の遭難を世界に伝え様としたのでした。

 小さなボートは、悪戦苦闘しながら島の北端を通り、南へ向かいました。
嵐が2隻のボートを襲い、彼らは大きな流氷にボートを引き上げて、非難しなければ成らない事も度々でした。
6月20日、壊血病で体力が低下していた、バレンツは、寒さと飢えに苦しみながら此処で死亡しましたが、彼は既に自分の運命を予感していたに違い有りません。

 嵐が静まると、残った人間は、猛進し、北極海を2900kmも横断し、九死に一生を得たこの一行は、終にムルマンスクに近い、コラ半島に到達し、其処には、ヤン・ライプ船長とその船が待っていました。
この慎重な船乗りは、恐ろしいバレンツ海に、それに相応しい敬意を払っていたのでした。
その為、生き長らえて、又新しい航海に船出する事が出来たのでした。

続く・・・
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