歴史のお話その277:語り継がれる伝説、伝承、物語64
<リリー・マルレーン>

第二次世界大戦でヒットした曲と言えば、往年の大女優マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)の歌う「リリー・マルレーン」を思い出す人が多いのですが、実はこの「リリー・マルレーン」を最初に歌ったのは、ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)で在る事は余り知られていません。
この歌は、1915(大正4)年に、ドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)の詩集"Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht"に収録されていた詩を基に、1938年、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲を付けたものを、大戦が始まる7ヶ月前の1939年2月、歌手ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)によって録音されました。
しかしその時には、60枚とも600枚とも言われる”伝説”が在る位売れず、曲も忘れ去られ、レコード会社には多くの在庫が残ったのですが、このレコードの内2枚がどういう経緯か前線慰問用のレコード中に紛れ込み、1941(昭和16)年6月14日21時57分、ベオグラード放送から北アフリカ戦線のドイツ兵向けに、この曲が流されたと伝えられています。
この曲は、忽ち戦線のドイツ兵の心を捉え、 多くの兵が故郷を思い、涙を流したと云われていますが、 ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行した為、ナチスはこの歌を禁止しました。
なお、ドイツ生まれの大女優マレーネ・ディートリヒは、ナチスを嫌い、アメリカに亡命し、戦時中アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡りました。
彼女は、此の時から「リリー・マルレーン」の歌を歌い、以後、彼女の持ち歌の一つと成りました。
ラーレ・アンデルセンは、この歌で人生が大きく変わり、「リリー・マルレーン」のヒットに目を付けたナチスは、彼女にベルリンのマンションを与える等の大スター待遇で迎え、前線慰問などに動員しましたが、彼女の「絶頂期」は長くなく、1942年夏、イタリアでの演奏旅行に出かけた彼女は、突然ゲシュタポに逮捕されてしまいます。
スイスに残してきた夫がユダヤ人で、亡命を図ったからではないかと言われますが、当局の追及に疲れた彼女は、睡眠薬自殺を図るものの、一命を取り留めます。
彼女の命を助けたのは、イギリスBBCのドイツ向けラジオ放送でした。
「貴方方の憧れの”リリー・マルレーン”を歌ったラーレ・アンデルセンは最近収容所に入れられて、そこで死んだ」と報道したのです。
ナチスの非道を宣伝する為の放送だったのですが、ナチスはその放送を否定し、彼女の健在ぶりを示す為、再びドイツ国民の前に出さざるを得ませんでした。
彼女は釈放されましたが、宣伝大臣ゲッベルスは、レコード原盤を持つエレクトローラ社に原盤の破棄を命じ、彼女にリリー・マルレーンを歌う事を禁じたのです。
その後、全てに疲れ絶望した彼女は、ベルリンを離れ、北海の孤島のランゲウォング島に身を潜めるようにして生活を始めました。
ドイツ敗戦後、彼女は再び歌手に復帰しますが、ドイツ国民は既に彼女の歌を必要とはせず、更に50年代のビート音楽の流行により、古くさい歌謡曲は急速に人気を失いました。
彼女は、民謡歌手に転向しますが、過去の名声は蘇る事なく、1972年8月29日、彼女は自伝のキャンペーン中にウィーンでその生涯を閉じました。
※歌詞(Wikipediaより)
歌詞の内容は、戦場の兵士が故郷の恋人への思いを歌ったもの。
(略訳)
兵営の前、門の向かいに
街灯が立っていたね
今もあるのなら、そこで会おう
また街灯のそばで会おうよ
昔みたいに リリー・マルレーン
俺たち2人の影が、1つになってた
俺たち本当に愛しあっていた
ひと目見ればわかるほど
また会えたなら、あの頃みたいに
リリー・マルレーン
もう門限の時間がやってきた
「ラッバが鳴っているぞ、遅れたら営倉3日だ」
「わかりました、すぐ行きます」
そして俺たちお別れを言った
君と一緒にいるべきだったのか
リリー・マルレーン
もう長いあいだ見ていない
毎晩聞いていた、君の靴の音
やってくる君の姿
俺にツキがなく、もしものことがあったなら
あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
誰が君と一緒にいるんだろう
たまの静かな時には
君の口元を思い出すんだ
夜霧が渦を巻く晩には
あの街灯の下に立っているから
昔みたいに リリー・マルレーン
続く・・・

第二次世界大戦でヒットした曲と言えば、往年の大女優マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)の歌う「リリー・マルレーン」を思い出す人が多いのですが、実はこの「リリー・マルレーン」を最初に歌ったのは、ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)で在る事は余り知られていません。
この歌は、1915(大正4)年に、ドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)の詩集"Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht"に収録されていた詩を基に、1938年、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲を付けたものを、大戦が始まる7ヶ月前の1939年2月、歌手ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)によって録音されました。
しかしその時には、60枚とも600枚とも言われる”伝説”が在る位売れず、曲も忘れ去られ、レコード会社には多くの在庫が残ったのですが、このレコードの内2枚がどういう経緯か前線慰問用のレコード中に紛れ込み、1941(昭和16)年6月14日21時57分、ベオグラード放送から北アフリカ戦線のドイツ兵向けに、この曲が流されたと伝えられています。
この曲は、忽ち戦線のドイツ兵の心を捉え、 多くの兵が故郷を思い、涙を流したと云われていますが、 ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行した為、ナチスはこの歌を禁止しました。
なお、ドイツ生まれの大女優マレーネ・ディートリヒは、ナチスを嫌い、アメリカに亡命し、戦時中アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡りました。
彼女は、此の時から「リリー・マルレーン」の歌を歌い、以後、彼女の持ち歌の一つと成りました。
ラーレ・アンデルセンは、この歌で人生が大きく変わり、「リリー・マルレーン」のヒットに目を付けたナチスは、彼女にベルリンのマンションを与える等の大スター待遇で迎え、前線慰問などに動員しましたが、彼女の「絶頂期」は長くなく、1942年夏、イタリアでの演奏旅行に出かけた彼女は、突然ゲシュタポに逮捕されてしまいます。
スイスに残してきた夫がユダヤ人で、亡命を図ったからではないかと言われますが、当局の追及に疲れた彼女は、睡眠薬自殺を図るものの、一命を取り留めます。
彼女の命を助けたのは、イギリスBBCのドイツ向けラジオ放送でした。
「貴方方の憧れの”リリー・マルレーン”を歌ったラーレ・アンデルセンは最近収容所に入れられて、そこで死んだ」と報道したのです。
ナチスの非道を宣伝する為の放送だったのですが、ナチスはその放送を否定し、彼女の健在ぶりを示す為、再びドイツ国民の前に出さざるを得ませんでした。
彼女は釈放されましたが、宣伝大臣ゲッベルスは、レコード原盤を持つエレクトローラ社に原盤の破棄を命じ、彼女にリリー・マルレーンを歌う事を禁じたのです。
その後、全てに疲れ絶望した彼女は、ベルリンを離れ、北海の孤島のランゲウォング島に身を潜めるようにして生活を始めました。
ドイツ敗戦後、彼女は再び歌手に復帰しますが、ドイツ国民は既に彼女の歌を必要とはせず、更に50年代のビート音楽の流行により、古くさい歌謡曲は急速に人気を失いました。
彼女は、民謡歌手に転向しますが、過去の名声は蘇る事なく、1972年8月29日、彼女は自伝のキャンペーン中にウィーンでその生涯を閉じました。
※歌詞(Wikipediaより)
歌詞の内容は、戦場の兵士が故郷の恋人への思いを歌ったもの。
(略訳)
兵営の前、門の向かいに
街灯が立っていたね
今もあるのなら、そこで会おう
また街灯のそばで会おうよ
昔みたいに リリー・マルレーン
俺たち2人の影が、1つになってた
俺たち本当に愛しあっていた
ひと目見ればわかるほど
また会えたなら、あの頃みたいに
リリー・マルレーン
もう門限の時間がやってきた
「ラッバが鳴っているぞ、遅れたら営倉3日だ」
「わかりました、すぐ行きます」
そして俺たちお別れを言った
君と一緒にいるべきだったのか
リリー・マルレーン
もう長いあいだ見ていない
毎晩聞いていた、君の靴の音
やってくる君の姿
俺にツキがなく、もしものことがあったなら
あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
誰が君と一緒にいるんだろう
たまの静かな時には
君の口元を思い出すんだ
夜霧が渦を巻く晩には
あの街灯の下に立っているから
昔みたいに リリー・マルレーン
続く・・・
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