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2013/12/20

歴史のお話その288:語り継がれる伝説、伝承、物語75

<翼よ、あれがパリの灯だ:①>

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 1927年5月20日、午前8時少し前、一機の銀色の単葉機が、積載した1700Lの燃料の重量に喘ぎながら、ロングアイランドのルーズベルト飛行場を離陸しました。
飛行機の名前は“スピリット・オヴ・セントルイス”、只一人操縦桿を握っているのは、若い飛行家、チャールズ・A・リンドバーグ2世。
是から5800km、大西洋を横断して、パリ迄単独無着陸飛行を行なおうとしていました。
この壮挙は、世界中の人々の夢をかきたて、センセーションを巻き起こしたのです。

 リンドバーグの試みは、航空史上、最も長距離の単独無着陸飛行で、ニューヨークからパリへの飛行は、是が始めてでした。

 リンドバーグが、ニューヨーク・パリ間の単独飛行を成し遂げたいと思ったのは、1年前、セントルイス・シカゴ間の郵便飛行士をしていた時でした。
しかし、当時5800kmの距離を無着陸で飛行可能な機体は、殆んど有りませんでした。
この長距離飛行の為には、機体から余分な重量を容赦なく削り取らなければ成りません。
この条件には、搭乗する人間の数も当然含まれます。

 リンドバーグは当時25歳、既に4年の飛行経験が有り、郵便飛行士、テストパイロット、アメリカ陸軍航空隊予備役として、実績を積み上げていました。

◎ライアン NYP “スピリット・オヴ・セントルイス”

 この若い飛行士の情熱は、他人にも伝染するものに違い無く、1927年2月、彼はセントルイスの実業家達から、資金援助を受ける事に成功し、この飛行に適した飛行機を製作依頼する為、センディエゴに向かいました。
其れから2ヶ月間、彼は、ライアン社の設計技師、ドナルド・ホールと密接に協力して、後に“スピリット・オヴ・セントルイス”として名前を後世に残す、単座、単葉の名機を生み出したのでした。

 最も重要な課題は、後続距離で、その為前方視界の殆んど大部分は犠牲にされ、エンジンとコックピットの間に予備燃料タンクが設置されました。
離着陸時は、ペリスコープの助けを借りて行い、シートはかなり後方に設置された設計になっていますが、是は出来得る限り、余分な空気抵抗を低減させる為でした。

 完成した、NYP型航空機は、燃料タンクが5ヶ所に設けられ、その航続距離、7245km。
是は、当時としては、極めて驚異的な燃料積載量で、大西洋横断には充分すぎる程のものでした。
そして、無駄な部分は、容赦なく削り落とされ、六分儀、ラジオ果ては、懐中電灯や照明弾さえ積まれていませんでした。

 1927年5月10日、リンドバーグはサンディエゴを出発、ニューヨークに向かいました。
他にも2機の機体が既に待機し、天候の回復を待っていたのです。
しかも、大西洋初横断飛行に成功した、飛行士には25000ドルのオーティグ賞が掛かっていたのでした。

 果てしなく思われた天候回復の待ち時間も終わりに近づいた頃、リンドバーグの頭は、最後の準備と天候の事でいっぱいでした。
当時この様な大飛行に天候は、最も重要な成功要因に成っており、リンドバーグがニューヨークに到着以来、大西洋上は、濃霧、嵐の悪天候が続いていたのでした。

続く・・・

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コメント

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こんばんは

徹底した軽量化。
それを聞くと、やはり危険な挑戦だったことが分かります。
旅客機が通常に大陸間を渡る今日では、そのリスクが実感しがたいので。