2013/12/23

歴史のお話その290:語り継がれる伝説、伝承、物語77

<北京原人化石の行方:その①>

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◎太平洋戦争の勃発

 北京から南西へ48km、周口店の小高い丘“竜骨山”の上に、中国科学院の博物館が在ります。
1972年10月1日の国慶節に開館しました。

 この山頂部分で、人類学上最大級の発見の一つ、“北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)”が発見されました。
展示館のすぐ外に問題に遺跡が在り、同館の展示物の中心も“北京原人”に関する資料なのですが、ここに展示されている、人骨化石は、レプリカなのです。
貴重な実物は、昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発の日を境に、行方不明に成ってしまいました。

 最初の二本の臼歯発見以来、アメリカ・ロックフェラー財団の資金援助で、大規模な発掘作業が実施され、其れまでに5個の完全な頭蓋骨を含む、約40体分の人骨破片が、動物化石や石器等と共に発見されていました。

◎列車に積まれた三つの箱

 開戦の12月8日、日本軍は北京に入城し、同地の「北京協和医学院(現・首都病院)」も軍によって接収されました。
直ちに、高井冬二東京大学教授(当時・東京帝国大学・人類学教室助手)が医学院に赴き、“北京原人”の現物資料を探しましたが、既に何処かに持ち去られた後で、徹底的な調査の甲斐なく、発見する事は出来ませんでした。

 その発掘資料は、同じく周口店から発掘された“山頂洞人(約1万~2万年前の旧人類)”の三つの頭蓋骨等共々、ロックフェラー財団が運営する「北京協和医学院」に置かれ、アメリカ系の研究者によって調査、研究が成されていましたが、日米関係が、風雲急を告げる雲行きと成った昭和16年、アメリカに帰国します。
化石は、医学院の倉庫に保管されましたが、その場所に保管する事は多大な危険を伴うと判断した、ヘンリー・ホートン院長は、より安全な場所である、アメリカ本国に移送する事を決定します。

 当時、北京駐在アメリカ大使館付武官アシャースト海兵隊大佐が、その責任を引き受け、化石は12月5日早朝、列車に載せられて北京を出発・・・と記録されています。
そして、3日後開戦の混乱が起こり、以降、“北京原人”の痕跡は消滅してしまいました。

 やがて、昭和20年8月15日、以後日本に進駐したアメリカ軍は、直ちに“北京原人”の所在を尋ねて、日本国内の関係機関、施設を調査しましたが、発見するに至らず、僅かに“山頂洞人”の遺品のひとつが東京大学人類学教室に在り、直ちにアメリカ軍が押収したに留まりました。

 勿論、中国政府もこの遺骨捜索に努めます。
その結果、開戦直前、アシャースト大佐の指示で、中国人労働者が化石を三つの木箱に納めて梱包、列車に運んだ・・・との証言が得られた事から、中国の研究者から「“北京原人”はアメリカに持ち出され、ニューヨーク自然博物館のコレクションに加えられている」との抗議が出された事が有りますが、同博物館関係者は、この事実を完全否定しています。
日本にも、少なくとも公にその存在が知られる形では、“北京原人”は存在していません。

続く・・・

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