歴史のお話その291:語り継がれる伝説、伝承、物語78
<北京原人化石の行方:その②>

SS President Harrison
◎北京⇒天津⇒秦皇島⇒?
さて、北京を列車で出発した化石は、天津を経由、東海岸の秦皇島へ向い、ここでバージに移され、アメリカ貨物船「プレジデント・ハリソン」号に載せられてアメリカ本土向う予定でした。
この行程の如何なる部分で、“開戦”となったのでしょうか?
列車の運行は、開戦前夜の空気の中で混乱しており、従ってダイヤ通りの運行は望むべくも無く、更に問題の列車は、ダイヤに存在しないアメリカ軍専用特別列車で在ったと云われています。
もし、まず北京・天津間で列車が、日本軍に接収された(又は、混乱の為、運行不能に陥った)場合、日本軍が略取、非軍事品として廃棄した事が考えられます。
或は、列車は無事天津に到着したものの、天津で押収され、その価値を認められたとすれば、そのまま日本輸送船に移されたと考えられますが、日本の研究者の手には渡っていません。
満州鉄道を経由して、無事、アメリカ海兵隊と共に秦皇島迄到着したものの、結果的に「プレジデント・ハリソン」号に積み込まれ無かったのは事実とされますので、他の船便若しくは、第三国へ送られた可能性が出てきます。
又、アメリカ海兵隊は、秦皇島で降伏している為、その際日本軍に引渡されたか、所持品として収容所を転々とする間に喪失したとも考えられます。
◎内幕
“北京原人”の行方をめぐる諸説は、以上の通りですが、何れも確証が無く、又否定する事も出来ません。
以下の様な話も存在しています。
アシャースト大佐の下で軍医をしていた、心臓外科医ウィリアム・フォーリー博士が、昭和46年にニューヨークの自然博物館人類学部へ明らかにした話として、「化石は、実際には木箱に梱包されず、アシャースト大佐と同医師のトランクに分けて納められ、私物として携行した。軍人では無かった為釈放され時、フォーリー博士は自分のトランクの内一個を中国人の友人に、もう一個を天津のパスツール研究所に、更にもう一個を同じスイス系商社の倉庫に預けた」更に「その後、フォーリー博士は上海付近の収容所でアシャースト大佐と再会した際、大佐は化石を納めたトランクと思われる物を所持していた。やがてフォーリー博士は仙台へ、アシャースト大佐は北海道の炭鉱に移送された為、トランクも一緒に北海道迄運ばれたか否かは不明」と云います。
アシャースト大佐は、戦後間もなく死亡している為、この証言の信憑性を確かめる事は、困難ですが、中国科学院の関係者は、同博士が、戦後26年間も理由無く、口を閉ざしていた事は理解できず、「トランクに納めた」証言は、中国人労働者の「木箱」と矛盾し、真偽の程はおぼつかないと否定的な見解を示しました。
“北京原人”も戦争犠牲者の一人として、その所在調査は進んでいません。
何処かに現存している事を祈るばかりですが、この化石の貴重さ、重要性を当時の一般の人々は殆んど知らない事から、仮に売却、廃棄されて当時の中国人の手に渡った場合、この化石骨を「竜の骨」として薬用にされてしまう恐れがありました。
事実、古代文字の貴重な資料である、“甲骨文字”の多くも粉砕されましたが・・・。
しかし、その行方、所在を調査する責任の一端は、日本にも課されているのです。
続く・・・

SS President Harrison
◎北京⇒天津⇒秦皇島⇒?
さて、北京を列車で出発した化石は、天津を経由、東海岸の秦皇島へ向い、ここでバージに移され、アメリカ貨物船「プレジデント・ハリソン」号に載せられてアメリカ本土向う予定でした。
この行程の如何なる部分で、“開戦”となったのでしょうか?
列車の運行は、開戦前夜の空気の中で混乱しており、従ってダイヤ通りの運行は望むべくも無く、更に問題の列車は、ダイヤに存在しないアメリカ軍専用特別列車で在ったと云われています。
もし、まず北京・天津間で列車が、日本軍に接収された(又は、混乱の為、運行不能に陥った)場合、日本軍が略取、非軍事品として廃棄した事が考えられます。
或は、列車は無事天津に到着したものの、天津で押収され、その価値を認められたとすれば、そのまま日本輸送船に移されたと考えられますが、日本の研究者の手には渡っていません。
満州鉄道を経由して、無事、アメリカ海兵隊と共に秦皇島迄到着したものの、結果的に「プレジデント・ハリソン」号に積み込まれ無かったのは事実とされますので、他の船便若しくは、第三国へ送られた可能性が出てきます。
又、アメリカ海兵隊は、秦皇島で降伏している為、その際日本軍に引渡されたか、所持品として収容所を転々とする間に喪失したとも考えられます。
◎内幕
“北京原人”の行方をめぐる諸説は、以上の通りですが、何れも確証が無く、又否定する事も出来ません。
以下の様な話も存在しています。
アシャースト大佐の下で軍医をしていた、心臓外科医ウィリアム・フォーリー博士が、昭和46年にニューヨークの自然博物館人類学部へ明らかにした話として、「化石は、実際には木箱に梱包されず、アシャースト大佐と同医師のトランクに分けて納められ、私物として携行した。軍人では無かった為釈放され時、フォーリー博士は自分のトランクの内一個を中国人の友人に、もう一個を天津のパスツール研究所に、更にもう一個を同じスイス系商社の倉庫に預けた」更に「その後、フォーリー博士は上海付近の収容所でアシャースト大佐と再会した際、大佐は化石を納めたトランクと思われる物を所持していた。やがてフォーリー博士は仙台へ、アシャースト大佐は北海道の炭鉱に移送された為、トランクも一緒に北海道迄運ばれたか否かは不明」と云います。
アシャースト大佐は、戦後間もなく死亡している為、この証言の信憑性を確かめる事は、困難ですが、中国科学院の関係者は、同博士が、戦後26年間も理由無く、口を閉ざしていた事は理解できず、「トランクに納めた」証言は、中国人労働者の「木箱」と矛盾し、真偽の程はおぼつかないと否定的な見解を示しました。
“北京原人”も戦争犠牲者の一人として、その所在調査は進んでいません。
何処かに現存している事を祈るばかりですが、この化石の貴重さ、重要性を当時の一般の人々は殆んど知らない事から、仮に売却、廃棄されて当時の中国人の手に渡った場合、この化石骨を「竜の骨」として薬用にされてしまう恐れがありました。
事実、古代文字の貴重な資料である、“甲骨文字”の多くも粉砕されましたが・・・。
しかし、その行方、所在を調査する責任の一端は、日本にも課されているのです。
続く・・・
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